Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

食料安保

「勝ち組、負け組」という言葉は、非常に品の悪い言葉で、私は嫌いである。
で、この言葉であるが、起源はブラジルの日本人移民達の間で、日本が戦争に「勝った」「負けた」という論争のためにできたのは有名な話である。
しかし、そもそも、なんでブラジルに移民がいたのか?
簡単にいえば、政府が推進したからである。
今日まで「棄民政策」として、政府非難の対象になっている。同様の移民推進は、アメリカ西部、ハワイや満州に対しても行われた。

ところで、江戸時代が完全な「循環型社会」だったことはよく知られている。鎖国していたから資源の輸入はないわけで、江戸市民は近郊の野菜を食べ、糞便は下肥として買い取られて、再び畑に利用されていた。
江戸時代の人口に関しては、およそ3000万人ちょっとだったはずで、4000万人に満たない。

大東亜戦争時の標語は「一億火の玉」「一億玉砕」なので、人口1億人。すると、なんと江戸時代から昭和20年までの100年に満たない年数で、人口は3倍以上に増えたことになる。
簡単な引き算であるが、1億人から3000万人を引けば7000万人である。さて、7000万人の食料はどうなっていたのか。

江戸時代の人口は、資源輸入がない中でのバランス人口である。すなわち、それで農業生産力に余裕があったわけではなくて、およそ3000万人以上が食っていけなかったから、人口が3000万人であった。論理的な帰結は一つで、海外から食料を手に入れるしか、日本人が生きる道はなかった。

結論をひどく簡単に言えば、食料は米国から買っていたのである。直接に米国から食料を買う、あるいは米国に製品を輸出し、そこで得た外貨でもって食料を買う。
1920年代の日本の貿易統計に占める米国の比率は40%であり、当然に1番の貿易相手国であった。
1930年代には、この数字は20%に半減する。世界がブロック経済に向かい、米国はモンロー主義を謳って海外貿易に消極的になった。主要な貿易相手である日本に対して、日貨排斥運動が起こった。
結果、日本は食えなくなって、ついに開戦に至る。

満州にいた開拓民が、終戦時にソビエト軍に追われ、大変な目にあったことはよく知られている。そのとき、軍が民を見捨てた、という批判もある。
日本の行為が満州「侵略」であれば、開拓民は「侵略者」以外の何者でもない。侵略者だから駆逐されたのは当然と言わねばならないはずだ。
ところが左翼ですら、これら開拓民を「侵略者」とは言わないのである。
しかし、彼らが「侵略者」でなかったとしたら、そもそも「侵略」の定義とは何か。つまり、軍隊が行くことか?もしも軍隊が行けば侵略、そうでなければ移民だというなら、日本人移民がいかなる目に遭っても軍を動かさなければよいはずだ。そうすれば、それはただの「移民」(または棄民)とは呼ばれるが、侵略ではなくなる道理ではないか。

日本に着任したマッカーサーは、当初は連合国の方針によって、日本に一切の輸出入を禁じた。そうして驚いた。日本人は、たちまち飢えてしまったからだ。
フィリピンの総督だったマッカーサーは、現地から農作物を収奪することに慣れていたが、まさか収奪どころか、飢え死する有様とは想像していなかった。
あわてて米国本土から、家畜用のもっとも安い小麦粉だの脱脂粉乳だのを持ってくる羽目になった。その上で、占領政策の下、日本を早期に国際貿易に復帰させる。
マッカーサーが、のちに日本について米国議会で「日本は土地が狭く、人口は多かった。日本人には、食べていくために資源と食料が必要だった」と証言したのは当然である。
マッカーサー自身が、日本人を食わせていくのに苦労したからだ。

日本人が、戦争に負けたのに米国に追随しているのはなぜか。言うまでもないが、食えるようになったからである。それまでの日本では、食えなかった。朝鮮だって台湾だって満州だって、日本を食わせてはくれなかったのである。

今の人口は1億2000万人であって、食料自給率は40%だから、単純計算で4800万人が食えることになる。しかし、この生産には、石油を使っている。石油の自給率は1%なのだから、かなり下駄を履いている。
下駄をとれば、やっぱり3000万人以上は食えないだろう。

まず食えることが日本の一大テーマであることに間違いはないのである。日本が食えるようになったのは、昭和40年代後半からに過ぎないじゃないか。
まだ半世紀も経っていないのに、もう飽食だとは、楽観すぎる。
食っていけない国に、平和はないと思うのである。