Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

新・戦争論

「新・戦争論-積極的平和主義への提言」伊藤憲一

元外務官僚による、新しい戦争論
著者は、現代を「不戦の時代」であると定義する。大きなパラダイムの変化である。
まず著者は、過去の戦争を、大きく3つのパラダイムに分けて見せる。「地域覇権戦争」「国際覇権戦争」そして「不戦時代」である。

「地域覇権戦争」とは、それぞれの国内(近代国家の概念ではなく、あくまで当時の勢力圏をそう呼称する)が統一されたあと、その国がひとつのリージョンで覇権を争う戦争である。
このリージョンを、著者は大きく5つに分けて見せるのだけれども、たとえばモンゴルとかペルシャ、ヨーロッパといった「帝国」の成立過程としての戦争である。
この覇権が確立してしまえば、もはやその域内では戦争は起こらない。ローマ帝国モンゴル帝国オスマントルコなどがその例に当たる。
覇権が成立した段階では、「戦争」ではなくて「反乱」に過ぎない。「戦争」が成立するには、拮抗した勢力であることが条件なので、それい以外では「反乱」「紛争」「平定」などと呼ばれるわけである。

さて、地域覇権が確立すると、今度はその「帝国」それぞれが世界覇権を巡って争う。これが「国際覇権戦争」である。
これに該当するのは、2回の世界大戦である。著者は、なぜ日本が第一次大戦戦勝国であったにもかかわらず、第二次大戦ではドイツと同盟したかについて「持たざる国だったから」だと説明する。
欧米は「持てる国」であった。つまり、植民地という「帝国」でみれば、ドイツも日本も「後れた国」だったからだ、という指摘は明快である。

そして「不戦の時代」がくる。これは、東西冷戦が該当する。核兵器の出現は「MAD」すなわち「相互確証破壊戦略」をもたらした。核の全盛時代に、ソビエトアメリカも万単位の核爆弾を保有したわけである。
単純計算すると、全人類を40~50回絶滅させる量であって「無駄」そのものに見えるが、それは「先制核攻撃」を受けた場合に残存する核弾頭を1割と想定したからである。
つまり、そこで残った核弾頭によって、先制攻撃した国も「耐え難い苦痛」を受けるから、自ずと正面戦争を回避せざるを得ない、というわけだ。
ご存じの通り、冷戦はソ連崩壊で終わり、米国の勝利となった。
この理由を、著者はWTO体制と共存した西側諸国の不戦体制の賜物、と見る。
逆に、東欧ブロックで閉鎖した経済体制をとったソ連は、衛星国の監視にも国力を費やし、ついに冷戦継続が不可能となって自壊してしまったのだ、という。

今や、世界で単独に軍事行動を取り得る国は米国しかない。しかも、いかなる国も、米国に対して正面戦争は仕掛けない。なぜなら、そんなことをしたら「お礼参り」で国そのものがなくなってしまうからだ。
それを考えると、もはや核拡散が不可能である(技術は必ず伝播する)としても、米国による絶対的破壊体制(UAD)は有効とみるほかない。
とすれば、今後、軍事行動による大きな世界体制の変革はない。「不戦時代」の到来である。
そうであれば、WTO体制とともに不戦体制を維持することが国際社会の一員たる国家の役割となる。
つまり、了解事項として「戦争は犯罪」だということだ。であれば、近所に犯罪者がうろついているのに「何もしない」という国家は、近所から指弾されないわけにはいかない。
日本の憲法9条は、そういう意味で既に役割を終えたのである。もしも「戦争は犯罪である」という前提に立つのであれば、市民として「犯罪抑止」に貢献しなくてはいけない。
イラク戦争は、戦争ではなく、イラク紛争であって、国連に対して大量破壊兵器の存在しないことを立証するために査察を受け入れるべきところを拒否したので、それは疑われても仕方がない。
その時点で「イラク大量破壊兵器がない」と断言する国家は1国もなかった以上、それは国際社会による制裁であって、それを戦争と呼称するのは不適切だ---。

評価は☆。この議論は、たしかに筋は通っている。なるほどな、と思う部分がかなり多い。

しかし、素朴な疑問が残るのも事実である。
今の世界経済がブロック化、つまりEUであるとか、あるいはASEAN+3(中国、韓国、日本)とか、NAFTAに向かうリージョン化を著者は「WTO体制に反するものではなく、これを補完するもの」と述べている。
ブロック経済内部だけで経済活動が完結できない以上、それは当然であろう。
しかしながら、それならそもそも「ブロック経済」自体が不要なはずではないか。自由貿易体制があるにもかかわらず、また自由貿易体制が平和への担保であると言明しながら、リージョナリズムを認めるのはどう考えても理に合わないじゃないか、と思うのである。
イデオロギーナショナリズムによって戦争が起きるのではない、という指摘は実に説得力があっていいんだけど、リージョナリズムに関してはイマイチ納得できなかった。

とはいえ、観念論から脱して、戦争を「社会現象の一つ」であるとし「よって、社会の仕組みの変化によって、無くなるもの」「事実、なくなりつつあるもの」と定義してみせたところは、なかなかダイナミックな議論である。

本書の問題点は、むしろ「もしアメリカに悪意があったらどうするか」は、まったく考慮されていないことだろう。
この著者の立場は、世界帝国と世界政府のイイトコ取りで、結局はすべての国民が「世界市民」になるのだ、ということになるんだが。
そこまでいくと、ちと楽観が過ぎるというか、そこまで人間の理性を信用できないと思った次第。賛否両論でしょうなあ。