Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

靖国問題(6)

(靖国問題 高橋哲哉 おわりに)

私「さて、老師。『おわりに』本書では、石橋湛山の『靖国神社廃止の議』をあげています。戦後日本は、国際社会の手前、靖国神社には参拝できないだろうし、そうなれば国家の面目は失われる。そもそも靖国といいつつ国を守ることはできなかった。人は、この神社をみるとき『ただ屈辱と怨恨との記念として永く陰惨の跡を留むるのではないか』とあります。」
老「うむ。さらに注目すべきは『言うまでもなく我が国民は、今回の戦争が何うして斯かる悲惨の結果をもたらせるかを飽まで深く掘り下げて検討し、其の経験を生かさなければならない。併しそれには何時までも怨みを此の戦争に抱くが如き心懸けでは駄目だ。そんな狭い考えでは、恐らく此の戦争に敗けた真因をも明かにするを得ず、更生日本を建設することはむずかしい』というあたりかのう」
私「これは、かなり注目に値するのではありませんか」
老「今日にも生き残る『靖国廃止論』の原型じゃからな。しかし、この主張も、その時はそう思った、ということじゃろう」
私「どのあたりが、そうなのでしょう?」
老「靖国に首相が参拝『できなくても』(しない、のではない)そもそも国家の面目なんぞ屁とも思っておらぬのが当節の日本人じゃし、戦後60年の長きにわたり戦争をしなかった国は稀じゃ。その一事をもって、充分に経験は生かされたと言えるじゃろ。なにより、今の日本人が靖国に参拝して怨みを抱くのではなく、怨みを抱いているのはむしろ戦勝国たる支那ではないのかのう?普通は、負けた方が勝った方を恨むものじゃから、石橋湛山もそう考えたのじゃろうが、事実は小説より奇なり。勝った国が負けた国を恨むという前代未聞の状況が起きておるわけじゃな(苦笑)」
私「ははあ。言われてみますと、この建議は、なにひとつ当たっていないのですねえ」
老「そうさ。武力の抛棄もしたとはいえぬし、にも関わらず日本は見事に更正に成功したのではないかの。まがりなりにも世界第二位の経済大国じゃ。60年の時の錬磨は、残酷じゃのう」
私「60年経ってみれば、説得力がない。なにひとつ成就しなかった。けれども、国が復興を通り越し、世界の経済大国。言われてみれば、ただのトンデモ文書みたいなもんですなあ」
老「ほれ、思い出してみるが良い。二日酔いの朝に『二度と酒など飲まない』と『断酒の議』を考えるじゃろ?それと同レベルなのじゃ(笑)」
私「苦しんだ後は、人間、だいたい極端な考えに傾くという話ですねえ。夕方になれば忘れていますが(笑)」

私「老師。まとめに入りますが、逐条論破に挑んでみてのご感想はいかがでしょうか」
老「ワシは思うたのじゃが、これは逆に『参拝否定派』に立って立論するほうが難しいの。『歴史認識』とか『戦争責任』といった定型によらねば、なかなか難しいことじゃの」
私「歴史認識と戦争責任、これが決まり文句で、実はそれ以外に大した根拠がない。だから、そこに大きく寄りかかる議論しかできない、ということですね」
老「そうじゃ。ところが、逐条反駁で示したように、歴史認識論は一種の差別肯定的な側面を含む宿命論であり、戦争責任論は文学論であることを免れぬ。そこが靖国参拝拒否議論の真の問題じゃ」
私「もうちょっとわかりやすくお願いします」
老「では、問おう。宿命論と文学論の組み合わせで語られるものは何か?」
私「は?!宿命論と文学論の組み合わせで、、、なんでしょう?」
老「ふふふ。それこそ『宗教』ではないかね?」
私「あ、、、なるほど!」
老「参拝否定論の本質は、じつはそれ自体が宗教であることなのじゃ。であるから、他の宗教は許せぬのじゃ。一神教的じゃの(笑)ゆえに、本書冒頭で示されたような『感情の問題』のような議論が出てくる。あれは、一種の宗教否定論に他ならぬでの」
私「宗教否定をする宗教とは、まさか」
老「その通り、じゃ。靖国信仰と同じ『宗教と言わない宗教』と同じ構造を持っておる。靖国参拝拒否は宗教ではない、という宗教じゃ。靖国とは、まさに鏡に映った鏡像の関係にあるのが参拝拒否議論なのじゃ」
私「なんといいますか、、、そんな結論でいいんですかね(笑)」
老「仕方が無いじゃろうが(笑)そもそも、宗教とすれば、答えは一緒じゃ。参拝したい人が、いつであれ、誰であれ、参拝して良いし、イヤな人は行く必要はない。政教分離なのだから、そもそも『参拝』という言葉に『公式』はない。『私的参拝』って、そらなんじゃ?」
私「たしかに。『馬から落ちて落馬した』みたいですな」

私「靖国に祀られたくない遺族を、どのように考えたらいいのでしょう」
老「宗教は、そもそもそれぞれ勝手な教義を持つじゃろ。たとえば、イスラム教でも、キリストは預言者じゃ。ただし、マホメットよりも古かったという」
私「そうですね。神の言葉を伝えたが、人類はよく理解できなかったようなので、あらためてマホメットを使わしたと」
老「そうじゃ。そんな解釈を、たとえばキリスト本人が嬉しがるかな?」
私「願い下げだ、というような気がしますが(苦笑)」
老「しかし、だからというて、イスラム教にキリストを預言者扱いするのはやめろ、と言うわけにはいかぬ。イヤなら、イスラム教を信じなきゃいいだけじゃ」
私「そりゃそうですね」
老「宗教は民主主義ではない、別の論理で動いておる。祀られた本人の意思なんざ、どのみち関係ないのじゃ」
私「そういう宗教、教義だ。それだけのことですもんね」
老「さよう。いちいち、神様に『あなたを祀っていいですか』と聞いておいて、それから祀るかどうかを決めるのじゃ、そりゃ『政治』ではあるかもしれんが『宗教』ではないじゃろ」
私「信じてなければ、ただの『他人がしているわけのわからん儀式』にすぎんわけですからね」
老「そうさ。気にする必要もない。ワシをのろい殺そうと、毎日ブードゥー教の儀式をされたところで、ワシは一向に構わんよ(笑)日本人に通用するものか」

私「最後に、老師が繰り返し批判された『エリートの論理』についてなんですが」
老「特攻隊の方々がおられたであろう。あの方々が、5000柱以上おられるのじゃが、その方々のうち、子供を残されたのは十数名しかおられぬそうじゃ。皆、若かったからのう」
老師は、そういってため息をついた。
老「遺族がそれぞれの仕方で追悼すればいい、と高橋は言う。しかし、子供を残すことなく特攻で亡くなった5000の方々の墓は、今やどうなっておるかのう。。。」
私「。。。」
老「そもそも、まずは個人で追悼でも顕彰でも、なんでもすればいい、それはワシも賛成じゃ。しかし、個人でできなくなったことを、国がするのがそもそも『社会保障』の基本理念であろう。それは、最後の一線じゃ」
私「あとがない、のですね」
老「そうじゃ。貧困の場合でも、まずは兄弟、親族、運が良ければ知人の世話になるであろう。されど、天涯孤独となれば、いったい国家が面倒をみなくて、いったいどうするであろうか」
私「文字通り、最後の一線ですね。。。」
老「そういうことまで考えた上で、物事は判断せねばなるまいよ。それを考えなくて済むのは、やはりエリートだから、じゃないかのう。今回はしゃべり過ぎたわい」


(終わり)