Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

古事記の真実

古事記の真実」長部日出雄

さて、2009年劈頭の書評を何にしようと思ったのだが、やっぱりこれかな、と。日本人ですからね。

古事記日本書紀は「記紀」とひとまとめにして呼ばれることが多く、その位置づけも「日本書紀史書」「古事記=創作」というのが普通である。
よって、記紀の中でも古事記は軽視されてきたわけである。
それを「いや、そうじゃなくて、漢文表記の日本書紀=からごころ、であって、やまとごころ=古事記だ」と主張したのが本居宣長。もっとも、この宣長卿、あまりに古事記に没頭しすぎた挙げ句に「書いてあることは全部事実」だと、キリスト教保守派ばりの原理主義を唱えだしたのである。で、それが戦後の封建主義批判(もっとも、なにを指して封建主義と呼ぶのか、批判している連中にすら定義がなかった)の中で「ありゃーダメだ」となった。
ついに登場したのが「古事記偽書説」というやつで、つまり古事記は「天皇は神である」という説を強化するために、後世になって偽書としてつくられた、というお話である。
じっさい、偽書説をあっさり信奉してしまう歴史学者が多かったのは、マルクス以来、歴史が「事実を追求する」よりも「どう解釈するか」(解釈の都合によっては、事実はどうでもいいやん、というウルトラ論議まで含む)が主流になってしまったからだ。
ちなみに、事実を追求したい人々は、歴史学といわずに考古学というようである。
そもそも、解釈そのものが学問だというのは、神学と同じなのだから、歴史学は神学の一変形であって、学問の系統発生に則るならば「神学部歴史学科」が正しいはずである。と思うと、なぜか考古学は「文学部考古学科」になっているわけで、なんじゃこりゃ?と思ったことはないだろうか?考古学がどうして文学部にあるのか、と。
思うに、神学も文学も、自らの学問を「科学」と称したことはなく、考古学が「科学ではない」と自覚したときに、そのほかの学問の下に入れなかった。
文学は、文学を「科学だ」と自称したことはないわけである。じゃあ、科学でないものが、科学だと自称した場合は?それを「疑似科学」というのですな。
ファインマンやらノイマンやらという物理学者、数学者による「社会学批判」は、実は「疑似科学を科学とよぶべきでない」という主張に収斂するわけである。

え?!意味がわからない?ううむ、、、読み飛ばしてください。(苦笑)

さて。
この「古事記偽書説」であるが、これは有力な証拠があって、現在では否定説が有力である。
まず言語学者有坂秀世による「モ音研究」がある。古事記は、日本語を漢字で表記した「万葉仮名」であるが、これの「モ」には「毛」「母」の2字が当てられている。
そして、この「毛」「母」が明確に使い分けられている、もっといえば、古代日本語が現在のいわゆる五十音ではなくて、もっと音数が多くあって、「モ」が「母」「毛」とかき分けられている場合、つまり「発音がそもそも異なる」ことがほぼ確実と見られているからである。
その後の研究で、だいたい78音まで使い分けていたことがわかってきている。今でも「僕が」というときの「が」が、いわゆるGAではなくて、鼻濁音のNGAである、という話を聞きませんか?助詞の「が」はそうなので。
もっといえば、宮廷のカルタ読みのときの音、あれを聞いていると、様々な音がある。
さらに、昭和54年に、太安万侶の銅板墓誌奈良市から発見され、太安万侶が実在したことがわかった。
年代的に、日本書紀のほうが数年後であって、既に「母」「毛」の一部混同がみられることなども考え合わせると、古事記の成立に関して、いわゆる偽書説がとられることは少なくなっているのである。

本書の内容は、今でも論争がある「稗田阿礼女性説」や「どうして日本書紀には出雲神話がなく、古事記だけにあるのか」「古事記は物語ではなくて、楽劇の台本だったのではないか」というような興味深い著者自身の見解と、特に近年の考古学的成果を丹念に紹介しており、実に読み応えがあるものだ。

というわけで。
新年冒頭でもあるし、この労作にまずは☆☆☆を進呈したい。間違いなく、良書である。手軽な新書で、こういう本が出ることを喜びたい。

余計なことを言っておくと。
古事記偽書説は歴史学というよりはイデオロギーに近いものに思われるが、そこには戦後流布された「天皇現人神説は、明治薩長政府がつくったもの」という主張があって、これに反する古事記偽書にしないと都合が悪かったという背景がある。
そこで、同じ万葉仮名で書かれた、大変有名な歌を、万葉集から採ってみると。
「おほきみは かみにしませば天くもの 雷のうへにいほりせるかも」(柿本人麻呂
愛国百人一首に採られたので有名だが、この歌はもともと万葉集にある。
しかしながら、万葉集偽作説は、まだ寡聞にして知らない。

思うに、大和朝廷成立前に、いわゆる出雲王朝と大和王朝が合併する(あるいは、連立政権をつくる、とか)といった政変があったに違いない。
そこでは、継続政体が大和王朝になった。つまり、出雲王朝は、大和王朝に屈したというような考え方も出てくる。しかし、そうすると、出雲の人々には「征服された我々」という感情がいつまでも残るだろう。
そこで、合併は「神様同士の話し合いでそうなった」ことにしたのではないだろうか。
人間が、人間に支配されたとかんがえると、それはイヤなものだ。相手が神様、こっちも神様だったら、それは仕方がないと思ったのかもしれない。
それで、平和を維持した。そうすると、徹底的な対立関係を避けて、まあまあええじゃないか、なあなあの馴れ合いかもしれないが、まあひとつよろしく、といったエーカゲンでオーザッパな我々の祖先の姿が見えてくるような気がするのである。

今であれば、それは支配者が民衆を欺す理屈だと批判されるのかもしれない。けれど、そういって民衆が不満をもって、果たして世の中が住みやすくなるだろうか?
そう思うと、適当なところで、神話をつくってナントナク国をまとめてしまったやり方だって、この島国で生活するための卓抜な知恵だったような気がするんですなあ。
日本は神国なり、といって外国と徹底的に対立してしまったことだけじゃなく、国内をテキトーにまとめてしまった功績もみておかないと、なんとなく不公平な気がするわけで。

ま、いつものように、最後はぐだぐだのワケわからん書評ではないような話になってしまいました。。。かんべん。