Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

封建制の文明史観

封建制の文明史観」今谷 明。

帯には「なぜ、封建制をとった国は、植民地にされなかったのか」とある。
大変斬新な視点で、素晴らしい惹句である。編集さん、良い仕事をしてますなあ(笑)
というわけで、さっそく購入。

まず著者は、モンゴル帝国の版図に入れられなかった国として、日本、ドイツ、イスラムアッバース朝)をあげる。
日本の元寇は、文永の役では「台風」によって救われたのだが、遙かに侵略軍を増やした弘安の役においては、短時日に防衛体制を整えた日本側の戦術的な勝利を指摘している。
元軍は、補給の困難や疫病の発生によって、自発的に撤退したという現在の主流説に対して「仮に自発的に撤退しなかったとしても、元軍の撃退に日本は成功していた」という指摘をする。大軍の揚陸作戦の難しさ、日本の土塁などの水際防御、元軍の補給困難と司令部の不統一、そして日本武士の旺盛な戦闘意欲である。
そもそも、当時の近代国家でない日本において「日本国」という意識を早急にまとめあげ、「国難」として対処したという点を、決して軽くて見てはならないのである。

同様のことが、ドイツに於いても言えると著者は言う。ワールシュタットの戦いに於いて大勝したバトゥは、なぜか西征軍を引き返す。これを、日本の教科書では、モンゴルの皇帝が死んだことによるクリルタイの開催のためだという。ところが、史実を調べると、この説明では日にちがあわない。
驚くべくことに、そのような説明が主流になっているのは日本だけであるそうで、欧州では既に「継戦困難の故に撤退した」のが通説であるという。ドイツ騎士団は、主将が討ち死にという状況に至っても、なお各地の城で頑強に抵抗をつづけ、モンゴル軍は結局これを攻めきれなかったのだというのである。
最後にアッバース朝であるが、このイスラム教徒達の強さは折り紙付きで、モンゴル軍も歯が立たなかった。彼らはマムルーク(奴隷)と呼ばれるが、いわゆる主人を持つ傭兵達で、貧しい生まれのものが立身出世するために自ら奴隷を目指すものも多かったのだという。マムルーク達は武芸を身につけると、主人から封地を貰い自活する。そして、いざというときには、主人の指令に従って戦う。源平時代の日本武士の発祥(北面の武士)とよく似ている。

これらの3ヶ国に共通するのは、つまり「封建制」であった、ということである。
そして、封建制度を経た国は、欧米の植民地にならないで済んだという歴史的な経緯がある。

ここで、著者は封建制の評価として「主人と家来の、対等な関係がある」ことを指摘する。
日本人によって戦後行われた封建制批判であるが、実は批判する当人達にも封建制というものがよく分かっていなかった。なかには、封建制と絶対制の区別がつかぬ学者もいたくらいである。
封建制度は「ご恩と奉公」という関係が特色で、いわゆる封地(領地)を領主に認めてもらうかわりに、領主の命に服するという交換がある。逆に言えば、ご恩がなければ、奉公する必要はない。
ぼんくら領主であれば見限って奉公先を変える、あるいは殿様を「押し込め」て、英邁な次の領主を立ててしまう。いっけん絶対制と同じような「命令」だけがある世界に思えるが、それを成立させるためには出発点として対等な利益関係が必要である。
そうすると、これはいわゆる近代制のはじまりとなるのではないか、という指摘である。
つまり、植民地化されなかった地域では、封建制のもとにまとまって外敵(つまり、ご恩と奉公の関係を破壊するもの)に抵抗する動機が強くあったのではないか、というものである。

ユーラシア大陸において、その内部である支那、インドは植民地化の苦汁をなめたが、かれらは封建時代を経なかった。もちろん、朝鮮半島もしかり、である。
日本の歴史は、実は封建制の経過ということでは、支那やインドよりもむしろ欧州に近い。
それが、いち早く近代化できた原因であろう。

この知見の先駆者として、著者は島崎藤村やウィットフォーゲル、梅棹忠夫網野善彦らを次々にあげては論考していく。

評価は☆☆☆。いやあ、おもしろい!
スリルたっぷり、知的興奮が充分に味わえる。こんな面白い本が新書で手軽に買えるとは、実に結構ですなあ。
ただの新書ブームとはいえない、ホントに面白い著作が出始めたのは、出版社もよく頑張っているのだと思う。

本書の中で触れられるウィットフォーゲルであるが、天安門事件のおり、支那民主化運動家達が翻訳されたばかりの本書をこぞって読み、大ブームをかの国で巻き起こした。
支那における王朝は、いわゆる大規模水利灌漑事業を行うことが権力の源泉になっていた、そういう意味では水が国家を規定する要素であったというので「水の理論」と呼ばれる。
その上で、そのような大規模土木事業を興すには、絶対制でなければ不可能だとした。つまり、支那は中世において封建制ではなく、常に絶対制であったということである。
マルクス主義者として知られるウィットフォーゲルは、レッドパージの時の言動が「裏切り」だというので、評判が悪い。
しかも、マルクスに関して「官僚制の危険について、あまりにも認識していなかった」と批判したから余計である。
しかしながら、その後の歴史を見るとおり、近代はテクノクラート(官僚制)の時代となり、今や民主制は官僚制によって大きく損なわれている。それは、社会主義だけではなく、自由主義社会においても全く同様なのである。
このような認識に達した支那の学生達は、こぞってウィットフォーゲルを再評価したので、一大ブームとなったわけだ。

ところが、このような情勢について、日本のマスコミも知識人も全く無視か無知であった。彼らが反応したのは、天安門事件後の共産政府による反日教育だけだったのだ。

今から10数年前になるが、共に酒を飲みながら語り合った共産党官僚の子息(太子党と呼ばれていた)の彼との交流などを懐かしく思い出した。
その支那も、もう巨大な資本主義経済の下にあることを思うと、非常に感慨深いものがあるのである。