Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

暴論;不便なほうが豊かだった

私は「レコード」が好きで、いまだによく聞く。
CDではなくて「レコード」である。もちろん、MP3プレーヤーも持っていて、これは便利なので、出張先などによく持って行っている。
しかし、自宅でゆっくり聞くときは「レコード」だ。そのたびに、考えることがある。

骨董品扱いのレコードであるが、意外に生き延びている。DJさん達のおかげで、プレーヤーも針も供給されている。
そういうディスコ向けのレコードは、ちゃんと新譜が販売されているらしい。
私の聞くジャズやクラシックは、数は少ないが、やはり細々と売られている。
もっとも、今は中古屋に行くことが多い。これは本屋と同じである。

今や、音楽はネットでダウンロードして聴くものになった。
坂本龍一が指摘しているが、3分間ポップスとベートーヴェン第9(演奏時間70分を超える)が同じ1曲の値段で売られているわけで、音楽の値段は崩壊している。
昔は、シングル盤は安くて、LPの2枚組は高かったわけであるが、そういう区分が消滅してしまったのだ。
そうすると、音楽はまさに「データ」に過ぎない。ケータイにダウンロードされた音楽は、機種を変えるときに捨てられるそうである。

レコードは、高かった。
ジャケットは30cm角であり、インテリアにもなった。そのジャケットを眺めながら音楽を聴く。
丁寧に扱わないと、傷が入ってダメになるから、おのずと貴重な盤は大切に扱うようになったものだ。
それでも何度も聞けば、傷はつくし溝もすり減る。なんども聞き直したレコードは、どこに傷があるかまで記憶の中にしみこむ。
そうして、1曲1曲を聴いた。

針も交換しないといけないし、レコードを拭き清めるセーム皮とかも購入した。
そのうちに、カセットが進化したので、デッキとテープを買うようになった。
こうして、一枚のレコードから、周辺機器や付属品、消耗品のビジネスが豊かに展開されていたのだ。
今振り返って、音楽産業の裾野を支えていたのは、レコード盤というメディアが不完全であり、その不完全さ故に、多くの市場ができていたと思える。
しかし、今の便利にネットダウンロードされる音楽と、不便で消耗してしまうレコードと、果たしてどちらが我々の心を豊かにしてくれただろうか?

暴論を承知で言うのだが、もしも音楽の提供形態を、CDやダウンロードをやめて、レコードにしてしまったらどうなるだろうか?
もちろん、そうなれば闇でCDやダウンロードがはびこるに違いないけれども、でも、音楽産業としては、また復活するように思える。
家でゆっくりとスピーカーに向かって音楽を聞くという生活が復活しないだろうか、と思う。

付記)レコードが壊滅したのは、レコードからCDを経てダウンロードというメディアの変遷だけではない。
なによりも住宅事情である。日本の狭い住宅では、巨大なコンポを置くわけにいかず、近隣の迷惑も考慮しなければならない。
大きなレコードは敬遠され、より小さなCD、MD、ミニコンポ、ついにはipodにたどり着いたというのが真相だろう。
だから、みんなが電車の中で音楽を聴いているんだろうと思う。
貧しくなったのは、人心ばかりではない。
戦後の日本の政策のなかで、もっとも間違ったのが住宅政策だと私は思う。
この問題が、現在の少子高齢化にまで、大きくつながっていると考えている。住宅政策を見直さないかぎり、少子化も、人口減少も、ひいては経済の衰退や年金破綻問題も解消しない、といったら言い過ぎだろうか。