Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

自由に生きるとはどういうことか

「自由に生きるとはどういうことか」橋本努。副題は「戦後日本社会編」。

なんとなく世間には逼塞した感が漂っている。
まちがいなく、景気は2番底に落ちていると思われる。私が個人的な景気バロメータにしている銀座も、最近は本当にダメだ。
ところで、景気を判断するのは「中級店」を見るのである。
高級店は、いつだって金持ち相手の商売で、これは安定している。激安店は、これも関係ない。不景気でも、マクドナルドに客が入らないことはないのである。
しかし、中級店は、もろに景気を先取りする。
銀座とは言わないが、どこの町だって良いので、その町でさほど老舗でなく、しかしちょっと高級な店があるはずだ。そこの客の入りをみればいいのである。
今は、、、ダメですなあ。

さて、経済的にも、弱小零細企業である私自身もダメなのだが、しかし、多少のカネをもっていた頃が、ひどく今よりも幸福とは思わなかった。
それどころか、時間的にも、業務的にも、非常に制約が多くて苦労したものである。精神に変調をきたしたくらい、プレッシャーがあった。
今は、、、やっぱり生活苦で、おまけにボロクソIT業界だから、それはひどいものだ。
じゃあ、どんな生活が理想かと聞かれたら、やっぱり「自由に生きる」ことじゃないか、と思う。

その「自由」であるが、人は、今の自分が「不自由」であると思えば、自由を追いかけることになる。何が不自由だと感じるかは、その時代のテーマによる。
本書は、その時代を、章ごとのタイトルで簡単にえぐり出す。

まず、戦後すぐには「連合国軍に学べ」であった。この頃の日本人の疑問は「なぜ、負けたのか?」であった。
アメリカ人が、そんなに優秀で、克己心とか精励努力する人種に見えなかった(苦笑)しかし、負けるには原因があるはずだ。
まず文化人は「堕落」し、エログロナンセンスに走り、その後でそれも飽きて、ついに英国の「パブリックスクール」に着目する。
そうだ、つまりは「自由と規律」(池田潔)というわけである。これは、戦中からの価値観ともマッチする回答であった。
日本人は「自立してないから」負けたのだ、という解釈をしたわけだ。

その次に、いよいよ朝鮮特需から日本経済が立ち直ると、一部のエリートによる「自由と規律」は魅力を失った。つまり、中間層が立ち上がってくる段階で「ロビンソン・クルーソーに学べ」という話になった。
自分で決めたルールに従って、自分で生産する哲学は、それは当時にピッタリだった。

やがて高度経済成長が始まると、ロビンソンクルーソーも流行らなくなった。当時が学生運動まっさかり。
よど号事件の田宮高麿は「我々は、明日のジョーである」と述べる。自由にいきることは、とりもなおさず、でかいことをしてその瞬間に「真っ白に燃え尽きる」ことだったのだ。
しかし、学生運動は、あさま山荘に代表される内ゲバという結果で終わる。とりあえず攻撃する相手は、国家よりも仲間内のほうが簡単だった。
より安きに流れるという資本主義原理そのものを、学生運動は通貨でなくゲバ棒で示すという無様な最後を迎える。

やがて、物質主義が最高に達するバブルの頃、尾崎豊が現れる。彼は、学校に対して「この支配から卒業せよ」と叫ぶ。
しかし、やがて尾崎は気づくのだ。学校を卒業しても、その支配から脱することはできない。むしろ、その支配の中で戦おうと考えた彼は、自ら社長となり、零細プロダクションの経営で苦しみながら、やがて薬におぼれて死ぬことになる。

尾崎の後にきたのは、失われた90年代に現れたアニメ「エヴァンゲリオン」であった。
主人公のシンジはつぶやく。「僕は、僕を好きになれそうだ」
自己肯定感の欠落した「よい子」である少年には、やりたいことなんかないのだ。ただ、周囲が期待するように振る舞うだけだった。
自己を肯定することができずに苦しむ人間を救うのが「人類補完計画」なのだが(その裏には、無償の母の愛を再確認させるというプロセスがある)しかし、物語では、この補完計画は失敗する。
ただ、ここで、今につながるオタク文化(なんと世界に通用する)がはぐくまれることになる。

そして、西暦2000年。「最高のトレッキング・シューズを買え」今や、ブームはロハスである。
大量のエネルギーを消費する自動車がかっこわるいことになり、かっこいいのはエコであり、ウォーキングになった。
それらのムーブメントはロハスというライフスタイルでくくられる。クリエイティブであることが、最高にかっこよく、また経済的にも成功する方法になったのだ。
これには裏の面もある。クリエイティブでない多くの人と、創造的な仕事をする人との格差は開く一方なのである。
そして、クリエイティブな人は、もはや紀伊国屋文左衛門のような、文化的な散財をしないのだ。
最高のトレッキング・シューズを買う生活で、彼らは満足している。
これはこれで、別の問題をはらんでいるように思うが。。。

著者のまとめは、非常に秀逸で手際がよい。思わず「ふんふん」とうなりながら読了。
素晴らしい。
評価は☆☆である。

我々の社会を取り巻く支配は、ソフトパワーなのである。
純化したい人は、それをアメリカが悪いとか、甚だしいのはフリーメーソンが悪い、ロスチャイルドの陰謀だという(苦笑)
しかし、支配とは、そんなものではない。
なんでも反米なら脱支配だというなら、尾崎の17才と変わらない認識レベルなのである。実は、これは、オウムの教義そのものなのだ。
本書の白眉は、この尾崎を巡る物語で、そこに時代のオウムの芽が胚胎すると指摘する著者は鋭い。
このあたりの展開のスリリングさは、必読だと思う。
推薦したい。