Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

クルーイストン実験

「クルーイストン実験」ケイト・ウィルヘルム。サンリオSF文庫、絶版。

ケイト・ウィルヘルムは日本では一般的には無名の作家であろうと思う。
しかし、米国では、女流SFの代表的作家であった。
いや、正確には、一時期の米国SFには女流作家しかいないくらいの時期があったから、あえて「女流」と冠するには及ばないのかもしれない。
この「クルーイストン実験」は、「鳥の歌いまは絶え」と並ぶ彼女の代表作である。

同じ製薬会社で働くアンとクラークは夫婦である。
物語の冒頭、アンが病院から退院するところで物語ははじまる。
不幸な交通事故で、アンは歩行が不自由になってしまったのである。
もっとも、医者はリハビリ次第だといい、もう少し入院してもいいのだが、あとは本人次第だと説明する。
アン本人は、早い退院を望んでいる。
病院の時間が、苦痛でたまらないからである。

アンの発見は、Pa因子を人工的に増加させる新薬であった。
Pa因子とは、いわゆる「痛み」に対する耐性を左右するものである。
人は、大ケガを負っても、痛みに非常に耐える人もいれば、かすり傷でも大げさに騒ぐ人もいる。
これらは、今までは単に「こらえ性がない」と思われていたのであるが、そうではなくて、人はそれぞれ生まれ持ったPa因子によって、実際に痛みを感じやすい人と感じにくい人がいるというわけである。
少々のことは我慢できる人は有利なように思われるが、そうではなくて、小さな子どもなどが痛みを訴えなければ、親は大したことがないと思ってしまうので、往々にして手遅れの原因になる。
逆に、少しの傷でも痛みを激しく感じる人は、狩りや戦闘で不利で淘汰されてしまう。

アンの発見した新薬を使うと、飛躍的にPa因子を増大させて、麻酔などなくても痛みを感じなくなる。
これは、素晴らしい発見である。

ところが、その発見者であるアンは、Pa因子が生まれつき少なく、痛みにたいへん弱い。
病院での治療やリハビリを嫌うゆえんである。

夫クラークは、会社ではアンの上司にあたる。
アンが退院してきて、ある夜、クラークはアンをレイプしてしまう。
夫婦だし、医者の了解もある。彼女はいつまで鬱ぎこもっているべきではない、普通に生活して良いのだという考えから、クラークは実力行使に出たのである。
これはアンを激怒するところとなり、二人は大喧嘩となる。

このとき、新薬の実験をしているチンパンジーに、不可解な現象が起こる。かなりの割合で、チンパンジーが気分不安定になり、激しく攻撃性を示した後で死んでしまうのだ。
ここで、クラークはある疑念に襲われる。
痛みに弱いアンは、新薬を自らに投与したのではないか?ということである。
自宅に帰ってからのアンは、激しく興奮し、手が付けられない。新薬発見にしても、発表時にはアンは助手になるだけだ、本当の栄誉はクラークが持っていくと言う。そんな待遇に甘んじる必要はないのだと彼女は主張する。
調べてみると、たしかにサンプルの新薬がなくなっていた。
アンは、それを自宅に持って帰ったことを認め、性急な人体実験を回避するためだ、薬は廃棄したという。
しかし、廃棄の証拠は見つからない。
さて、アンは新薬を自分に投与したのかどうか?真相は結末に示される。。。


ストーリーは分かりやすい。アンとクラークの口論も、フェミニズム的な視点からの指摘に富んでいる。
このあたり、ジョアナ・ラスと並ぶフェミニズム作家の面目躍如とする。
評価は☆。ある意味で、センスオブワンダーには乏しい。多少古くなった感じは否めないな、と思う。

つい先日、あるデータが公表され話題になった。
男女の賃金格差であるが、20代については、ついに男女が逆転し、女性のほうが平均賃金が上回ったのである。
これをもって、単純に喜ぶべきではない。我が国の国会議員や企業管理職における女性の割合の少なさは、諸外国と比較しても異常なのだそうだ。
同じ人間であるのに、性差をもって、出世が左右されるのでは、女性は憤懣やるかたないであろう。
フェミニズム論者が言うところももっともだと思う。

一方で、出世と社会での生き残り競争に明け暮れせざるを得ない男性(おうおうにして、狭い世間で生きている)と比べて、女性のほうが人生を楽しんでいるのではないか、と思うこともある。
ついに逆転した20代女性の賃金であるが、さて、果たして、彼女らはそれによって、以前の女性達より幸福になったのだろうか?
単に「男並みに」働くよう強いられて、少し収入が増えても、気持ちはちっとも豊かでないことはありはしないだろうか、と思う。
もしも男女平等が「男女平等に苦しむ」話だとしたら、「みんなで貧乏に」なってしまったマルクス主義と同じで、もっと大きな不幸の入り口に過ぎないだろう。

私見であるが、すでに女性を「男と同じに扱え」という時代は終わったように思われる。
それは、つまり「男と同じ労働」で「男と同じ不幸」を背負い込むという話に過ぎないのではないだろうか?
とはいえ「権利を同じにするならば、義務もまた同様」という主張そのものは、当然に合理性がある。
男女平等はもちろん大事であるが、そこから、男女平等の「幸福」をどう考えていくかというゴールがなければ、単に平等を実現せよと叫んだところで、魅力に乏しい話だと思わざるを得ない。
そういう意味で、やはり時代は変わりつつあると思うのである。