Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ


第67回直木賞受賞作。ほぼ満票であったそうな。
読んでみると、それがわかる。処女作にして、この出来栄えなのだ。圧倒的である。

舞台は江戸から幕末を経て明治へと移っていく。
その時代の移り変わりのなかで、主人公の山田吉亮の苦悩が描かれていく。
山田家は、代々「浅右衛門」と襲名する。「首切り浅右右衛門」として高名であった。
正式な役職は「将軍家御佩刀御試」である。
将軍の刀がナマクラではどうしようもないというので、その切れ味を確かめるというわけだ。
もちろん、人を斬らねば、刀の性能はわからない。
で、もともとは、刑死した罪人の死体を切っていた。ところが、それがだんだん、同心たちが嫌がる首切り役の代役を引き受けるようになっていく。
著者は、わざわざ首切りを請け負ったのは、おそらく人の肝臓が妙薬として珍重されたからであろう、という推測を述べている。
明治時代に、民間薬に「浅右衛門丸」があって、動物胆であったが、これのもとは人胆であろう。
それゆえ「浅右衛門丸」という名がついたのだと。たしかに、うなずける推理である。
そして、この副業故、山田家はたいへん裕福であったようだ。

しかし、この山田家も、次代の移り代わりには抗うことができない。
明治になり、刑法が改正され、首切りは残酷だとして廃止の趨勢に向かう。
実際には、最初の絞首装置はまったく役立たずなもので、罪人はなかなか絶命できずに長時間もだえ苦しんだ。
浅右衛門は、一瞬のうちに頸部を断絶する。なるべく罪人を苦しませず、一刀のうちに首をはねるのが山田家の矜持であり秘伝であるわけだった。
しかし、西欧から伝来した刑法は、そのような家法をまったく顧みることはない。
やがて絞首装置は改善され、現在の踏板型の完成に至る。
一方で、外見上無残な斬首刑は廃止されていく。
世情、最後の斬首刑とされている「おでん」だが、この女の首を打つのに、浅右衛門は失敗する。
女が嫌がり、逃げまわり、首を縮めるので、何度も仕損じて、ついには数人で体を抑え込むところを自ら血まみれになりながら押し切る仕儀となった。
現場は酸鼻を極める光景となったという。

実際には、このあとにも、細々と斬首刑は行われる。おもに、政治犯である。
彼らは、元武士が多く、絞首よりも刀で切られて死ぬことを望んだ。そのため、斬首が実行されたのである。
その最後に、吉亮が首を切ることになった人の顔は。。。。


評価は☆☆☆。
素晴らしい小説、としか言えない。名作の名に恥じぬ。一読、必ず損はない一冊である。

おりしも、衆院総選挙となり、たくさんの世襲候補が立候補している。
そのために、世襲批判がでている。
しかしながら、そもそも世襲であろうとなかろうと、世に無用となれば、そこで一家ごと消え去る運命でしかない。
世襲候補が、政治家という「家業」を継続できるのは、そこで継続することを、周囲が認めているからに他ならない。
政治家に限らず、すべての職業でそうである。
政治家だけが、家業であっていけない理由を、私は思いつかないが、しかし無能な政治家は親の跡目を継ぐことはできず、時代に淘汰されるしかない。これも真実であろう。

個人は、最後は時代に裏切られるのである。それが立派な家業であろうと、あるいは賤業といわれるものであろうと、そこにまったく変わりはない。
かつての時代の寵児も、ながくその座を後世に伝えることは難しい。
裏切られた個人は、傷つくことになる。
そういう傷をあますところなく描いた小説である。

私も、そんなふうな人間の一人なのであろうと思う。
まあ、まだ終わりたくはないので、あがいているわけだけど(苦笑)人間、それしかできませんもんねえ。