Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

原発賠償の行方

原発賠償の行方」井上薫

冷温停止状態」という新語を生み出した福島原発事故であるが、その避難民の賠償という問題も、まだこれからの段階である。
本書は、いまだ事故の現在進行形中の時期に書かれたものであるが、その指摘するところは、たぶん現在と変わりない。

まず、原発事故の賠償については「原賠法」というれっきとした法律がある。
この法律では、事故の過失無過失によらず事故は賠償されるとし、もしも事業者が賠償できない場合は国家がこれにあたることになっている。
ところで、この原賠法の第3条1項にただし書きがある。その内容は、異常な天災や戦争などによる場合の免責規定である。
これについては、東電が適用を求める姿勢をにじませたため、大騒ぎになった。
しかしながら、著者は、この規定を東電が求めた場合に、司法判断によっては適用があり得る、と指摘する。
本当に千年に一度の災害であるなら、それは免責になるであろう、ということだ。

そして、その後8月に決定した「原子力損害賠償支援機構法」を痛烈に批判する。
まず、東電が賠償にあたり破産して、その不足分を国が補てんするのであれば話は分かるのであるが、実際には国は東電に賠償金を貸し付け、東電が賠償を行う。
その貸付金は結局、東電以外の他の電力会社にも割り振られて、電力料金の値上げによって賄われる。
とすると、これは国民が負担しているだけの話であって、本来賠償責任に応ずべき東電の責任については全く曖昧なのである。
つまり、このスキームであれば、電力会社には倒産の危険も何もないのであるから、「二度と原発事故を起こさない」という動機が働かない仕組みではないか、と指摘する。
責任者がまったく不在のスキームなのである。

さらに問題なのは、この法律が明らかな事後法であることだ。
事故が起こってから、じゃあ賠償金を負担するようにと法律をつくって、財産を取り上げる。それが法治国家に許されることであろうか?
それが許されるなら、国家はなんでもアリである。個人が財産を守ることなどできないではないか。
事故が起きたら財産を指し出せ、が正当化されるのであれば、事故を起こした東電は当然だが、他の電力会社にしてみれば強盗にとられたと変わらぬし、電気料金値上げによって金を巻き上げられる国民の財産権とはどうなるのであろうか?
これは、憲法違反になるのではないか?というのだが、なぜか、護憲団体は原発事故処理が憲法違反だと誰も言ってくれない(笑)

浜岡原発停止要請についても同じである。
そもそも、内閣に、原発停止を命じる権限などありはしない。法律にないことを好き勝手にできるのであれば、それは法治国家の名に値しないであろう。


評価は☆。
法律家による「異議申し立て」として、なかなか面白い。「空気」で決まる世の中に対して、このくらいの異議申し立てはあってしかるべきである。

疑問点も、もちろんある。
浜岡の件であるが、超法規的措置かどうかではなく、あくまで「停止要請」であったということ。
もしも「停止命令」であれば、著者の指摘は当てはまるであろうが、「要請」である。「要請」は「お願い」である。
「お願い」は「いやだ」といえばいいのである。
これを、著者は「中部電力はこれを命令としてとらえたようである」と、一行で済ませている。
しかし、単に「要請」であれば、これは法律違反でもなんでもない。誰だって、頼みごとをすることを禁止する法はないはずである。

次に、原発立地における「過失相殺」の適用である。
原発立地には、巨額の補助金交付金が投入されており、実際に町の中には「原発増設決議」を行った町さえある。
原発が増えれば、交付金も増えるからである。
これらの交付金補助金は、原発の危険性の受忍と引き換えにされたものであるから、賠償金からその部分を差し引くべきである、という指摘である。
この論理には、穴があると思う。
つまり、原発立地が受忍したのは「原発の危険性」ではなくて「風評被害」だったのではないか、と思うからである。
実は、私自身、311前に「深刻な(レベル7の)原発事故が起こる可能性は科学的に考えてゼロ」だと思っていた。
もちろん、たまにわずかに放射性ガスが漏れる程度の事故はあるのだが、それだって、実際には問題にならないレベルであろう。
いわゆる「原発安全神話」である。
とすれば、原発が怖いというのは科学的な知識の不足から生じる根拠のない不安感であって、お化けが出る物件と変わりがない。実際にそんなものはないのである。
だから、その評判を受忍することで、経済的にメリットが得られるのであれば、それは利益がある行為だ、ということだ。
原発怖いという話は、ただの反原発のためのおとぎ話なのだから、それで金がもらえるなら賢い選択だ、ということである。
そのような前提でいたところ、なんと、実際に原発の深刻事故が起こってしまった。
これは、話が違うじゃないか、と思うのである。「原発お化け」の風評被害を引き受けるつもりはあったが、本当に放射能が漏れてくるなどいう話はなかった、それは話が違うだろ、ということだ。
この立論は、事故以前の説明会や政府広報、電力会社のパンフレットの中に、いくらでも証拠が見つかるであろう。

言うまでもないが、世の中に、なかなか決着のつかない話は多い。
その決着をつけるために、法律が存在している。最後は法律で話をつけるほかないのである。

思ったことであるが、もしも、仮に今、東電を破たん処理するとして、誰か他の会社に事業を売却するとする。
その場合に、もちろん、確実にもうかる仕事であるから、当然に買い手はつく。
さて、その買い手は、原発を買うであろうか?
もちろん、事故を起こした福島原発は買わない。損だから。
では、他の原発は買うか?
私が経営者であれば、買わない。再稼働までの見通しも立たないこともあるし、何しろ、最後は廃炉にしなければいけないが、その費用を償却可能なのかどうか、わからないからである。
廃炉となれば、高レベル廃棄物の最終処理の問題が出るが、これを解決できるコスト見通しが立たないから、リスクが高すぎる。
とすると、原発抜きで買ったほうが、より利益が確実に出せる。なにも危険を冒す必要などないのである。

他の経営者がどう考えるかわからないが、もしも、売却しようとしても、誰も買い手がつかなかったら、それは資産とはいわないのである。
ただの負債である。

原発問題は、脱だとか卒だとか、言葉遊びのような神学論争のように見えるのだが、自由主義経済の原則からの評価も必要なのではないか、と思う。
ちなみに、原発事故の賠償をすべて民間保険で賄うとして、その保険料を電力料金に反映するのが正しい処理のように思うのだが、、、その場合、いったいいくらになるんだろう?