Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

退場のとき

昨日の衆院選の結果を見ながら、「ああ、終わったな」と思った。
自民党は大勝したが、それを喜ぶ気持ちは少なかった。あえていえば「当然の結果」だったから、特に感慨もない。
それよりも、多くの現職閣僚が枕を並べて討死する民主党の有様をみて「これは終わった」と思ったのである。

民主党が終わった、というような意味ではない。(終わったとは思うけど)
そうではなくて、民主党が背負っていた、いわゆる「戦後民主主義」が、ついに終わった、と私には思えた。

なんとなく、であるが、ちょいと左巻きで人権と平等が大好きで、すぐにバラマキをしたがる戦後民主主義というやつは、どういうわけかインテリに受けがいいわりには、長く政権に就くことがなかった。「そうはいっても、アタマでっかちだもんなあ」という民衆の一般的評価がこれを妨げていたのである。
しかし、ついに前回の選挙で「1回やらせてみるか」となった。評価はしていたが、実際には使われなかった「戦後民主主義」は、行き詰った日本の「切り札」として投入されたのである。それが、あの民主党による政権交代であった。

で、どうなったか?
答えは簡単で、つまりメッキがはがれた。「戦後民主主義」は、現実問題について、あまりにも多く限界をさらけ出し過ぎた。人々がそれを悟るのに、3年は長すぎたくらいであった。
自民党が勝ったというよりも、民主党が負けたのである。今回の選挙は、民主党の信任投票であった。

それにつけても思う。
なんで、野田さんは解散したのだろうか?私は、選挙前に「次の選挙は民主党のお葬式」と書いた。誰もが、同じことを思っていただろう。
第三極の選挙準備が整わぬうちに奇襲する、そんな献策を行った参謀がいたのかもしれない。だとすれば、とんだ愚論であった。

民主党議員ですら、まさかの解散表明であった。
永田町では、党首討論で「うそつき」呼ばわりされた野田さんが、ついにプッツンしたのだとささやかれた。
「うそつきと呼ばれることだけは我慢ならん」彼は。常々、周囲にそう語っていたそうである。


越後の国、新発田藩に井上久助という武士がいた。
万治の頃、新発田藩と隣国の会津藩との間で問題が起こった。
会津藩の特産はろうそくであり、新発田藩の塩とそうろくの交換という形で、交易がおこなわれていた。ところが、ろうそくの価格が下がり、新発田藩の商人は、ろうそくと塩の交易を損になることから中止した。
これが、会津藩を怒らせた。ときの藩主は保科正之であり、将軍の異父弟である。
「塩を止めるとは、会津藩に遺恨でもあるのか」と難癖をつけてきた。メンツをつぶされたと感じた会津藩の怒りである。
新発田藩はわずか5万石の小藩である。将軍家の親戚とことを構えたとあっては、亡国の危機であった。
そこに、この井上久助が名乗り出る。「私に策がありますから、お任せください」
井上久助は、会津藩に出頭する。
塩止めは、自分が私腹を肥やそうと塩を横領したものが原因である、藩に落ち度はない、と主張した。
会津藩は、井上の嘘を見破ろうと、炮烙の刑を科す。真っ赤に焼いた鉄板の上を渡らせたのである。井上は、謡曲「杜若」を謡いながらこれを渡り、渡り切ってぱったり倒れた。
ついに、井上久助は打ち首となる。罪人であるから、武士の死である切腹すら許されなかった。
そうして、井上は、おのれの汚名と引き換えに、藩を救ったのである。

おのれの美学といえば聞こえがよいが、単に「うそつき」と言われたくないから解散した、では、到底、政の大事を預けるに足らない。本当の政治家は、おのれの名をも捨てねばならないことがある。
もちろん、野田さんは、井上久助の足元にも及ばない。
(もっとも、民主主義と士道は反するものであるので、野田さんは単に民主主義だったのかもしれないが)

このような人物であってみれば、小さいとしか言えないのである。

かえずがえすも思う。
なぜ、このタイミングで解散したのか。

私は、民主党支持者でない。だから、解散自体は、当然だと思う。
しかし、今のタイミングでは、決してなかったはずである。

誰か、この謎を、いつか解いてほしいものである。