Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

カルトか宗教か

「カルトか宗教か」竹下節子

フランス在住の著者による。
かの国でも、カルトはたいへん活発なのだそうだが、私が本書を手に取ったのは「カルトと宗教の線引き」をどのようにするのか?ということだった。
結果、重要な示唆を得ることができた。

著者はフランスで、カトリック、エゾテリズム(フリーメーソンやら薔薇十字やらという異端)の史学を専攻したらしい。
よって、カルトに対するカトリックの「異端審問」の残酷な歴史も忘れない。
しかし、今のカトリックは、すでに「神性はあらゆるところに現れる」という見解を発表しており、いわゆる異端審問は行われていない。
汎神論ということであろうが、それでも唯一神信仰であるから、日本の神道などとは似ているようで異なる。

フランスでは、政府が「カルト団体」を指定しているようだ。
これには、国内でも批判があるらしい。おそらく、政教分離違反の疑いが濃いからである。
つまり、ある団体は「カルト」で政府が規制、別の団体は「宗教」だからオッケーということになるので、間違いなく政府権力が個人の信仰へ容喙しているから。

ここに至って、では「カルト」と「宗教」を分けるものは何であるか?ということになる。
著者はいくつかの点を指摘しているが
・歴史性がない
・社会との隔離を目指している
・排他的
・個人への崇拝
・脱会などの自由がない
・時間や財物などの負担が大きい
ことを上げている。
まずまず、容認できる要素である。

さらに、いわゆる「ニューエイジ」や「自然保護」「健康」についても「一種のカルト」である、と指摘している。
特に「シンプル」な生活への無条件の憧憬について
「すべてを捨て去るという欲望の根源には、タナトス(死の欲求)がある」と指摘しているのは鋭い。
思わず唸ってしまった。

評価は☆。まあ、一読して損はないのだが。

著者のスタンスがカトリック基調であるため、同意できない事項もある。
その典型が「なんらかの交流」を宗教の基礎としてあげている点だ。
キリスト教では、神への帰依と祈りを通して、自分と神との交信をする。無力で罪深い自分の自覚である。
そこが信仰の出発点である、しかしカルトではむやみに超能力や修行を重視し、自己に没入して交流がないという。
さらに、中共チベット侵略によって、チベット仏教徒が世界に散らばり、彼らの死生観(死後49日で修行ができていない魂は他の動物などに転生してしまい、それっきりである)が救いのない新興宗教になって社会不安を招いているとして批判するのである。

すでにお気づきであろうが、そんなことを言い出せば、いわゆる禅宗もすべてカルトである。
永平寺に閉じ込めて、外界との連絡を絶ち、厳しい修行に邁進させる(しかも、ろくな食事も与えず、睡眠も少なくて)は、カルト以外にないだろう。
それでは、臨在も曹洞も、みんなカルトであろう。
あるいは、著者が賞揚する「本来の仏教ではないが、死後に勤行をしてあげると、ご先祖があの世で安らかに過ごせる」などというのは、いったいどこの宗教だろうか。
こんなことを、仮に真宗の坊主が言ったら、そいつは偽物である。あり得ない。
排他的というが、日蓮宗をみよ。今でも排他的である(笑)。何しろ、教祖以来の「折伏」が布教の柱であるから。
つまり、著者の「カルトか宗教か」は、仏教国には通用せず、あくまでキリスト教(それもカトリック基本)でしかありえない。

つらつら考えて、私が辿り着いた結論を書いておくと、カルトと宗教を分けるものはズバリ「歴史」である。
極論を言えば、どんな宗教も、最初はカルトである。新興宗教は、すべてカルトである。
数百年の時を刻めば、どんなカルトも、宗教だ。それだけの時の練磨に耐えた、ということである。(そこには、教義の変質も含まれる)
おかしくない。考えてもみよ。
法隆寺が偉大なのは、古いからである。エジプトのパピルスが珍重されるのは、古いからである。
橋も道路も、文書も、都市も、古いものは珍重される。
著作物に至っては「古典」とされるではないか。

ごく平凡な結論であるけれども、平凡人にとって、間違いのない結論であろうと思うがなあ。
私は、少なくとも「生きている教祖」なんぞを拝む気にはならんのでありますよ。
もちろん、それぞれ人の自由、ではありましょうがねえ。