この天才ピアニストに関する本は、数多出版されている。
本書は、その中でもグールドの「コンサートピアニスト時代」に焦点を当てていて、たいへん興味深い。
本書は、その中でもグールドの「コンサートピアニスト時代」に焦点を当てていて、たいへん興味深い。
グールドというピアニストは、32歳でコンサートから「引退」してしまう。
聴衆の前で演奏する「一回性の芸術」を、グールドは拒否したのだった。
その後、彼は録音でしか、演奏を発表しなくなる。
彼の演奏は、レコードでしか聞けないものになったのである。
81年録音のバッハ「ゴールドベルク変奏曲」は、真っ先にCD化されたタイトルだったが、記録的なセールスをした。
私は、アナログのときに素早く買ったけど。
聴衆の前で演奏する「一回性の芸術」を、グールドは拒否したのだった。
その後、彼は録音でしか、演奏を発表しなくなる。
彼の演奏は、レコードでしか聞けないものになったのである。
81年録音のバッハ「ゴールドベルク変奏曲」は、真っ先にCD化されたタイトルだったが、記録的なセールスをした。
私は、アナログのときに素早く買ったけど。
よく評論家が「演奏家の価値は、ナマで聞かないとよくわからない」という。
私もナマ体験は数少ないがあって、そのときは、録音で聞くよりもより曲趣を掴んだように思えた。
だから「生で聞かないと」という評論家の言も、うなずけるものがある。
私もナマ体験は数少ないがあって、そのときは、録音で聞くよりもより曲趣を掴んだように思えた。
だから「生で聞かないと」という評論家の言も、うなずけるものがある。
しかし、である。
そもそも、ナマをやらないピアニストを、いったいどのように評価したら良いのか?
答えはどう考えても、聞き手がその手元の装置で鳴らした音楽以上のものでしかない、ということになるだろう。
装置の良しあし、聞き手のコンディション、部屋のコンディション。
そう考えると、グールドが言った「一回性の芸術」が、やっぱり録音であってもあり得るような気がする。
だけど、録音の場合は、「何度も聞き直す」ことができる。
やり直しがきく、ということは、やっぱりすごいことだと思う。
そもそも、ナマをやらないピアニストを、いったいどのように評価したら良いのか?
答えはどう考えても、聞き手がその手元の装置で鳴らした音楽以上のものでしかない、ということになるだろう。
装置の良しあし、聞き手のコンディション、部屋のコンディション。
そう考えると、グールドが言った「一回性の芸術」が、やっぱり録音であってもあり得るような気がする。
だけど、録音の場合は、「何度も聞き直す」ことができる。
やり直しがきく、ということは、やっぱりすごいことだと思う。
本の評価は☆。
グールドのファンなら。
グールドのファンなら。
ところで、若者が音楽に支出する金額は減る一方であるそうだ。
そもそも、音楽を聴かない人も増えているらしい。
音楽は、今やネット配信で聞くものになり、かつてのようなメディアを所蔵する楽しみ方もなくなってきた。
いわば、趣味としての音楽から、場の空気のような音楽に変わってきたのだと思う。
そもそも、音楽を聴かない人も増えているらしい。
音楽は、今やネット配信で聞くものになり、かつてのようなメディアを所蔵する楽しみ方もなくなってきた。
いわば、趣味としての音楽から、場の空気のような音楽に変わってきたのだと思う。
聞き手が常に主導権を握ることは、ある意味で当然かもしれない。
かつての音楽鑑賞は、レコードの保管に気を使い、針を掃除し、慎重にターンテーブルに針を下して、アルバム片面ごとに楽しむものだった。
アルバム片面が終わるまで、聞き手は忍耐を(気に入らない場合)強いられたのである。
しかし、一方で、その緊張からくる集中力もあった。
かつての音楽鑑賞は、レコードの保管に気を使い、針を掃除し、慎重にターンテーブルに針を下して、アルバム片面ごとに楽しむものだった。
アルバム片面が終わるまで、聞き手は忍耐を(気に入らない場合)強いられたのである。
しかし、一方で、その緊張からくる集中力もあった。
どうも、人間というのは、少しは制約がないといかんのではないか。
恋愛だって、禁止されるとかえって燃えたりしますからなあ(笑)。
恋愛だって、禁止されるとかえって燃えたりしますからなあ(笑)。
人間というのは、つくづく不思議な生き物であると思いますね。