Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

キスカ島 奇跡の撤退

キスカ島 奇跡の撤退」将口泰浩。副題「木村昌福中将の生涯」。

副題の通り、日本海軍の木村昌福(まさとみ)中将の伝記である。
日本海軍の将官といえば、有名なのは山本五十六南雲忠一山口多聞といったハワイ作戦~ミッドウェイ組であろう。
しかし、なかには「日本でよりも、外国のほうが有名」という将軍もいる。
本書の木村昌福は、そのひとりである。

経歴がユニークである。
なにしろ、海軍兵学校の成績がビリから数えた方が早い、というぐらいであった。118人中107番である(笑)。
海軍の場合、この卒業時の成績を「ハンモックナンバー」と呼び、その後の出世を左右する。
成績ビリでは、だいたい良くて大佐どまり、巡洋艦の艦長あたりでオシマイである。
本人も、そのつもりであったらしい。
ところが、勃発した大東亜戦争は、木村の運命を変えてしまう。
駆逐艦乗りとして艦隊の把握に優れた指揮官として、地味ながら重要な作戦に起用され、ついには(終戦後ではあるが)中将に補された。

木村の名を不動のものにしたのが、米軍からも「パーフェクトゲーム」と賞賛された「ケ号作戦」である。
1943年。アリューシャン列島のアッツ島で、大戦初の「玉砕」が起きた。
次は隣のキスカ島が危ない。島には、海軍の陸戦隊と陸軍兵士、およそ6000名がいた。
海軍では、まず潜水艦を10隻派遣し、民間人(軍属)を優先して数百名を救い出す。
しかし、そこで米軍に気づかれてしまい、潜水艦を3隻喪失。
ここで、水雷部隊による救出作戦が立案され、指揮官に任命されたのが木村であった。

木村は、まず気象観測官をスカウトする。米軍の空襲のすさまじさをよく理解していた木村は、キスカの霧に紛れての行動しかないと見ていた。
天候悪化の予報を受けて、木村は7月12日にキスカに忍び寄る。しかし、視界は良く、敵機が見える。
そのまま、木村は15日まで待った。しかし、ついに霧は出ず。
島には、待ちわびる5000名以上の兵士が居る。
司令部は「6割つれて帰れば御の字」と言っていた。救出作戦を強行するかどうか?
しばし黙考した木村は、幕僚に言う。
「帰ろう」
そして、こう付け加えた。
「帰れば、また来られるからな」
帰港した木村は、艦隊司令部から非難囂々であった。
平時でも理想の状況は望みがたい、それを戦時に理想を求めて不決断は情けない、と面罵された。
海軍は、このままでは陸軍に面目が立たないので、木村の更迭さえちらつかせて、次こそは作戦の強行をせまった。
その中でも、木村は泰然自若としていたという。もちろん、心中には、期するものがあっただろう。

7月22日、木村の率いる救援艦隊は再度、出発。
今度は、艦隊司令部が軽巡1隻を「督戦」のためにつけてきた。プレッシャーである。
ところが、その艦隊司令部が、いざという段になって、実行を躊躇する。そのくらい、北の海の天候はさっぱりわからない。
しかし、木村は既に予報官の「霧、出ます」の報告を受けていた。
「天佑ナリ」と進撃する。
この2日前に、米軍はレーダーに移った幻の艦隊を攻撃し、弾薬が尽きてちょうど補給に戻ったばかりだった。
無人の海をいき、木村はついにキスカに到着。将兵を乗船させる。
5000名以上の兵の乗船時間は、わずかに50分であった。
これは、木村があらかじめ「乗船にあたっては、武器を捨てるように」要請していたためである。
陸軍は反対した。「陛下の菊のご紋章の入った銃を、海に捨てるなどできるか」
しかし、木村はガダルカナルで、銃を抱えたままの乗船で非常に手間取ったことを知っていたので、あえて
「それは、平時はそうなれど、戦時にあたっては臨機応変の運用が必要なり。帰れば、また出撃できる。そのときに、武器を改めて与えればよいではないか」
と突っぱねた。
それが功を奏したのである。
帰りは、各艦28ノットの快速をとばして、敵の空襲圏内から脱出。見事に、5000名以上の兵を、一兵も残さず、撤退させることに成功した。

木村は、その後、ミンドロ島における礼号作戦でも、日本海軍最後の勝利をあげている。
「おれは水雷屋」と自称し、あえて旗艦に駆逐艦「霞」を選んだ男は、ミンドロ島に殴り込み、敵多数の輸送船を撃沈、その帰りに被弾沈没した麾下の「清霜」の沈没海面で、自ら兵の救助を行った。
普通は、司令官の船は先に帰り、救助は配下の船を残すのが普通である。
それを、部下を先に帰らせ、危険な救助を自ら行ったのである。
木村は、最後まで双眼鏡で海面を探し「もう、おらんか。もう、おらんか」と探し回ったという。

木村には「戦争は命の奪い合いだが、余計な殺生はすまじ」という思いがあったようだ。
まさに名将というにふさわしい武人である。

戦後は、部下の暮らしが成り立つようにと塩田経営を行った。
木村の人柄に惚れた金持ちが、ぽんとカネを出したという。
そのカネを数えもしなかった、おおらかな人柄であった。

評価は☆☆。
まあ、この本はずるいわね。素材が良すぎるから(苦笑)。

陸軍にも今村均という仁将がいるが、海軍の至宝はこの木村昌福であろう。
人命を大事にしたとともに、艦隊の進退の判断に、実に誤りがなかった。
先任だとかハンモックナンバーだとか、くだらぬ序列のために、あたら有為の人材を起用できなかった。
その点は、旧日本海軍のために、深く惜しまれるところである。

最低の将軍(本書の中にもあるが、牟田口などは人外の下郎であろう)のことばかりが話題になりがちなのは、先の戦争が「負けた戦争」だから仕方がない。
しかし、全部が全部、ダメ揃いだったのではない。
優秀な将星も、相当いたのである。
負けたのは、ひとえに物量の差であって、ひいては戦略眼のなさ、情報の軽視、政治の程度が低かったことに尽きる。
なんといったって、信念だけでは勝てぬのである。

思えば、戦後の我が国の復興も、大いにその敗戦の反省の上にできたものである。
戦訓は、戦後の至る所に見られるのだ。気づいておられる方はいようと思う。

困難に遭っても心の余裕を失わず、勝ちにあってもこれをおごらず。
人に褒められると素直にうれしがり、しかし、喜びは控えめにする。
万事にまず、他人のためを心がける。
なかなか、至難のことではあるが、かような男になってみたいもんですなあ。