Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

不利益分配社会

「不利益分配社会」高瀬淳一。副題「個人と政治の新しい関係」

2006年の古い本であるが、なかなか興味深く読んだ。
著者の指摘は、日本における政治のパラダイム変換は小泉政権で起きた、とする。
それまでの日本の政治は「利益分配」がメインテーマだった。
戦後の復興から高度経済成長を通じて、常に市場もパイも増え続けていたのである。
政治に期待される役割は、その利益を、いかに皆に分配するか?であった。
吉田、池田から佐藤、田中、中曽根、そして細川政権に至るまで、実はずっとそうだったと言って良い。
細川政権は「利益分配の仕方」に対する異議申し立てではあっても、基本的にメインテーマが「利益分配」であることに違いはなかった。

しかし、小泉政権は違った。
郵政民営化というのは改革の一つの旗印であり、特殊法人特別会計という利益分配を見直す、という意思表示だった。
就任にあたって小泉は「米百俵の精神」を掲げたが、日本の総理大臣として初めて「痛みを我慢せよ」と訴えたのである。
その背景には、増え続ける財政赤字、一向に止まりそうにない少子高齢化バブル崩壊以後に国際競争力を失っていく産業という事情があった。
つまり、政治のテーマが「利益分配」から「不利益分配」にはっきり移ったということである。

小泉以前の政治は、政治家と利益分配団体が結びついていた。
利益分配団体がゼネコンであれ組合であれ、つまりは利権があって、その利権を主張する代理人が政治家であるという図式に変わりはない。
ところが、小泉はまったくそのような背景がなかった。
不利益の分配にあたっては、従来のような利益配分を目的としたような組織は存在しえない。
そこにあるのは、いわゆる「浮動票」である。
これらの人々に対して、不利益を甘受してもらうためには、団体の論理では難しい。
そこで小泉は、徹底して政治家個人のアピールを行った。
利益団体の代表であることをやめて、個人の国民に向けて直接語りかけることを目指した小泉は、毎日「ぶら下がり会見」を行い、直接メッセージを発信する。
そして、ついに郵政解散において、一気に流れを変える20分間の演説を成し遂げる。

不利益分配社会において、個人アピールに徹し、いわゆる浮動票(小泉自身は、浮動票は宝の山、と呼んだ)をメインにしたことが、小泉政権の成功のキーだった。


なかなか、面白く読めた。
少なくとも、小泉政権の支持層の中心を担った浮動票を、広告代理店に踊らされる知能の低いB層、という捉え方をしていない。
それはそうであろう。
浮動票の動向を、広告代理店が自由に左右出来るのであれば、その後の民主党政権交代も、さらには自民党の政権奪還もなかった。
広告は大きな流れを加速することは出来るが、あくまで戦術である。
戦略は、政権の志向する流れで決まるのであり、それが世の中とリンクしなければならない。

翻って、今の安倍政権に対する批判は厳しいものがあるが、これも基本的に戦略のミスマッチによる。
アベノミクスという成長戦略を描いたが、しかし今後の「不利益分配」については何も発信しなかった。
有権者は、それがわかっているので、将来不安からカネを使わず、消費は冷えたままである。
結果、景気には火がつかず、アベノミクスは中途半端に終わっている、とみる。
森友や加計の問題自体は、大した話ではないと思うが、しかしそれが「仲間内の利益分配の政治」と見えた瞬間に、浮動票は離れた。
政治のメインテーマ「不利益分配」から離れた政権運営が、苦しんでいる原因であろうと思う。
今の日本の政治では不利益分配を避けることは出来ない。
そして、不利益分配を説明しきる力が必要だろう。
安倍首相は、そういう期待があったのだが、今や「利益分配の政治家」とみなされるに至っている。
古い自民党の支持者には受けが良いのだが、しかし、今のメインである浮動票は取れない。
当分、厳しい政権運営が続くであろうと思う。

明るい未来が好きなのは誰しもそうですが、しかし、厳しくなる現実もわかっているわけで、あまりに逃げると駄目になりますよねえ。
勇気をもって正論を述べつつ、しかも明るさを失わない。大変な資質が要求されるわけで、政治家も、なかなか大変な時代になってきたな、と思うわけですよ。