「信長死すべし」山本兼一。
年末進行も、ようやく落ち着いて、気ままな読書生活に入る。
武田氏を滅ぼし、着々と日本統一の事業を進める信長であるが、正親町天皇は危機感を持つ。
信長が、天皇を大阪城に移らせる画策を行っていたからである。
さらに、五の君の養父となって、天皇に譲位を迫る。
もしも五の君が即位されると、その養父である信長は理屈の上では上皇と同じ、ということになる。
これは足利義満が使おうとした手であるが、朝廷はこれを否定できないのである。
かつて北朝で使った手だからである。
追い詰められた朝廷は、近衛前久に節刀を託し、明智光秀に信長征討の密勅を下す。
尊皇の気風のある光秀は、朝敵となった信長を討つ。
もちろん、ことが成就した暁には、朝廷が信長を「逆賊」だと言ってくれるわけで、よって光秀は「逆臣」ではないわけだ。
ところが、光秀が本能寺の変を挙行した途端、近衛は雲隠れし、朝廷は「知らぬ存ぜぬ」を決め込む。
情勢を様子見して、生き残った者を正統と認める、というのが朝廷の策だったわけである。
臍を噛んだ光秀だが、すでに遅い。
逆臣となって山崎の合戦で敗北、落ち延びる途中を空しく野武士に討ち取られる、ということになる。
信長が、天皇を大阪城に移らせる画策を行っていたからである。
さらに、五の君の養父となって、天皇に譲位を迫る。
もしも五の君が即位されると、その養父である信長は理屈の上では上皇と同じ、ということになる。
これは足利義満が使おうとした手であるが、朝廷はこれを否定できないのである。
かつて北朝で使った手だからである。
追い詰められた朝廷は、近衛前久に節刀を託し、明智光秀に信長征討の密勅を下す。
尊皇の気風のある光秀は、朝敵となった信長を討つ。
もちろん、ことが成就した暁には、朝廷が信長を「逆賊」だと言ってくれるわけで、よって光秀は「逆臣」ではないわけだ。
ところが、光秀が本能寺の変を挙行した途端、近衛は雲隠れし、朝廷は「知らぬ存ぜぬ」を決め込む。
情勢を様子見して、生き残った者を正統と認める、というのが朝廷の策だったわけである。
臍を噛んだ光秀だが、すでに遅い。
逆臣となって山崎の合戦で敗北、落ち延びる途中を空しく野武士に討ち取られる、ということになる。
実は、本能寺の「朝廷黒幕説」は、歴史通にはあまり人気がない。
なにしろ、証拠に乏しいのである。
吉田日記に肝心の日の記述がないなどの状況証拠はあるのだが、直接に示唆する文書の類がまったくない。
あくまでも「小説家的想像」ということになってしまう。
もっとも、他の説もそういう意味では決め手がないので、みんな「小説家的妄想」である。
光秀自身の怨恨説、野望説のほか
・秀吉黒幕説
・家康黒幕説
・キリシタン黒幕説
・鉄砲ルート(海外)黒幕説
さらに、上記の組み合わせなどのバリエーションがあって、枚挙にいとまがない。
ないのは「ユダヤ黒幕説」くらいのものである。そのうち、出るのではないかな(爆笑)
なにしろ、証拠に乏しいのである。
吉田日記に肝心の日の記述がないなどの状況証拠はあるのだが、直接に示唆する文書の類がまったくない。
あくまでも「小説家的想像」ということになってしまう。
もっとも、他の説もそういう意味では決め手がないので、みんな「小説家的妄想」である。
光秀自身の怨恨説、野望説のほか
・秀吉黒幕説
・家康黒幕説
・キリシタン黒幕説
・鉄砲ルート(海外)黒幕説
さらに、上記の組み合わせなどのバリエーションがあって、枚挙にいとまがない。
ないのは「ユダヤ黒幕説」くらいのものである。そのうち、出るのではないかな(爆笑)
まあ、良くも悪くも、そういう状態なので、小説家にとってみれば「言ったもの勝ち」ということで、これは絶対に書きたい事件になるわけである。
それぞれの書き手の「ものの見方」とか「人間観」がにじみ出るので、読む方にとっても面白い。
山本氏は、なかなか辛辣なものの見方をするところがあって、そのへんが本書の醍醐味ではないか、と思う。
評価は☆☆。
オススメである。
それぞれの書き手の「ものの見方」とか「人間観」がにじみ出るので、読む方にとっても面白い。
山本氏は、なかなか辛辣なものの見方をするところがあって、そのへんが本書の醍醐味ではないか、と思う。
評価は☆☆。
オススメである。
ついでに、私自身は「家康黒幕説」をとる。
実は、家康の「天下取り」は、この時に成るはずだったのではないか、と思うのである。
光秀は家康と通じていたのではないだろうか、と思う。
それが、秀吉という「計算違い」が現れて、失敗してしまった。
そう考えると、のちの家康の豊臣家に対する扱いも「本能寺のときに天下を取り損ねた腹いせ」だと考えられる。
よほど、無念だったに相違ない。
実は、家康の「天下取り」は、この時に成るはずだったのではないか、と思うのである。
光秀は家康と通じていたのではないだろうか、と思う。
それが、秀吉という「計算違い」が現れて、失敗してしまった。
そう考えると、のちの家康の豊臣家に対する扱いも「本能寺のときに天下を取り損ねた腹いせ」だと考えられる。
よほど、無念だったに相違ない。
ま、そんな勝手な想像をしていると、なにやら楽しくなってくるわけである。
この辺が、歴史の面白さ、ということではないかなあ。
この辺が、歴史の面白さ、ということではないかなあ。