Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

大空のサムライ

大空のサムライ坂井三郎

かの有名な日本の撃墜王の名著である。初めて、一冊を通読した。あの戦争の当事者の一人の証言ということになるだろうが、読み物として素直に面白い。大評判になったのもわかる。

 

坂井三郎の撃墜数は自称64機なのだが、公式記録は半分以下である。別に坂井がホラ吹きだというわけではなくて、撃墜不確実(墜落したのを最後まで確認していない)ものや共同撃墜(誰かほかの人の撃墜数にカウントされている)なども含んでいるのだろうと思う。戦場では、「やった」と思ってものんびり行く末を見ている暇なんかないので、これは致し方なしと思う。

 

坂井の撃墜数が思ったよりも少ないのには、ほかにも理由がある。本書にある通り、坂井はガダルカナルの戦いで負傷し、ラバウルから本国に送還されて、以後は大村で教官になった。終戦前に横須賀に戻って空戦に参加しているが、これはわずか1回で、本人が述懐するように片目の視力を怪我で失っているので、戦闘機パイロットとしてはすでに第一線では通用し難くなっていた。つまり、大戦の後半は戦闘に参加していないわけで、全戦通じて戦ったエースたちに比べれば半分程度の撃墜数になるのは自然なことである。

 

評価は☆☆。空中戦の描写は、どことなく講談調になっているのが面白い。開戦当初は破竹の進撃で良い調子だが、ラバウル、ラエと進むに連れて悲壮になってくる。史実の通りである。

 

ところで。

本書に坂井が零戦で「電話が使えたらなあ」と嘆く場面が2度ほど出てくる。零戦の機上電話はまったく使い物にならなかった、とよく言われるのは、このへんが出典になっている。

で、私はある雑誌で、大戦中の零戦の機上電話のカラー特集を見たのだが、実はたいへん驚いた。それは松下製で、もちろん当時のことなので真空管式なのだが、なんと局発に水晶振動子を使ったクオドラチュア検波式の受信機で、当時の最先端であることはもちろんだが、現在でも(素子が真空管ということを除けば)通用する回路構成なのである。これで性能が悪いはずがないだろう、、、と思ったのだが、事実、整備したそれはとても明瞭に通話できたという。

実は、機上電話単体の性能には問題がなく(松下も苦情を受けて何度も社内で試験したが、特に問題は発見できなかった)不思議に思っていたらしい。それが、零戦52型の開発のときにようやく立ち会わせてもらい(それまでは零戦という秘密兵器の開発に松下は立会いさせてもらえなかった)通信不調の原因が通信機本体ではなくて、機上に搭載した時のアースが不良であることを発見した。おそらく、単に機体にアースすると、機上では発電機が回っているため、その電流がアースから通信機に逆流して電位を揺さぶったものであろう。で、アースを対策したところ、なんとか動作をするようになった。なので、大戦後半から52型に乗ったパイロット達は「機上電話は普通に使えた」と証言しているのである。

 

ついでに、昨今では「零戦は大したことがなくて、むしろ大戦後半まで通用した陸軍一式戦”隼”のほうがはるかに傑作機」という噂ももっともらしく流布している。これも、従来の「海軍上げ、陸軍下げ」へのアンチの一環として言われ始めたことだろうが、そもそも前提が違う機体を比べても仕方がない。

開戦劈頭のマレー作戦のとき、陸軍の上陸部隊が英国軍の爆撃機から狙われるというので、陸軍は海軍に空中護衛を依頼した。が、海軍は真珠湾に全機出払っているので、そっちに回す余力がない。仕方がないので、陸軍は隼の加藤部隊(いわゆる加藤隼戦闘隊である)に護衛させることにして、6機が出動した。結果は、敵機は来襲しなかったが、6機のうち実に4機が未帰還となった。航続距離不足である。そのとき、船団の位置は沖合500キロメートルであった。500キロメートルの作戦位置で、零戦ならば燃料切れを起こして落ちるようなことはない。

隼の4機のうち、1機は不時着が確認されているが、海軍機は不時着すれば海上である。助かることはないのだ。不時着しても味方の勢力圏内なら助かる陸軍機とは違う。防弾板もなく、翼端に燃料タンクまでつけて航続距離を伸ばしたのは、そういう理由がある。

零戦は、やはり優れた戦闘機であったと思う。ただ、後継機に恵まれず、引退の時期を失したということでありましょう。