Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

未知の剣

「未知の剣」渡辺洋二

かつて日本陸軍に、航空審査部という部署があった。
試作機に実際に搭乗し、正式採用に耐えるか、あるいは運用方法、機体の限界などをテストする。
当然、凡百の腕前ではそのパイロットは務まらず、歴戦のエースクラスが起用されていた。

本書は、関係者への丹念な取材をもとに、その陸軍航空審査部の活躍を描いたドキュメンタリーである。
いろいろと面白い話が出ている。

まずキ43だが、有名な隼である。
前型の97戦に劣るという判断で正式採用されなかったものが、航続距離が長いので復活したという話は有名である。
そのキ43であるが、ゼロ戦と比較されて評価が低い。しかし、審査部の評価は意外と良いのである。
特に三型は「粘りがあって、無理が効く」としている。
しかし、戦争後期でエンジンの品質が保てず、実戦部隊の評価は低い。惜しまれるところである。

傑作機として名高い疾風、五式戦はそれなりの評価。
むしろ三式戦(飛燕)が評価が高い。特に二型は馬力が増して良いようである。この飛行機も、一式戦三型と同じで、発動機の品質が保てなかった。
あげくに液冷エンジンそのものが生産不能になり、空冷エンジンに付け替えて五式戦の誕生となる。

外国機もドイツのBF-190e、FW190A、さらに鹵獲したアメリカのP40E、P51Bなど試乗している。
評価が高いのはFW190AとP51Bだった。

整備班はP51Bを見て「これは勝てない」と落胆したという。
アメリカの飛行機は、飛行が終わって着陸してボンネットを開けてもエンジンはきれいなままである。
ところが、日本機は真っ黒である。工作精度の問題で、あちこちからオイル漏れがあるからだ。
米国機はオイル漏れがないのできれいなのである。
数量で負ける上に、精度で負け、さらに整備手間で負ける。勝てるわけがない。

大空のサムライ」の坂井氏からけなされた機上電話だが、隣の機との会話はできた、という。
一方、大戦初期に鹵獲したP40の無線機は、なんとシンガポールのラジオ放送まで受信できた。
この性能差はいかんともしがたい。

大戦後期になると、B29による本土爆撃がはじまる。
審査部のベテラン搭乗員たちは、試作機を駆ってB29迎撃にむかう。
この空戦は圧巻である。
審査部は実戦部隊ではないのだが、B29を迎撃できる試作機をもつ唯一の部隊であるからだ。
彼らは機体に撃墜マークを描かなかったが、作戦後、整備兵がプロペラに「二機撃墜」と引掻き傷で書いたという。
どれだけ誇らしく思っていたかわかる。

最後の審査機は、特攻専用機「剣」であった。
特攻作戦に反対の審査官たちは「性能不足であり採用に値せず」と答申する。
しかし、実際には、陸軍上層部の命令ですでに量産開始されていた。末期症状であった。

評価は☆☆。
面白さは保証する。圧倒的に優勢な連合国機に対して、試作機で立ち向かうのだから、ガンダムエヴァンゲリオンの元祖みたいなものである。
かつてプラモデルに熱中した人なら、わくわくすること間違いない。

最後に、著者のあとがきから簡単に紹介しよう。
著者が本書を書こうと思い立ったのは、日米混血の審査部来栖良少佐のことがあった。
来栖良は、あの有名な来栖三郎全権大使の息子である。
来栖大使はアメリカ人の妻をもらったから、息子はハンサムで長身の混血であった。彼は誰からも愛される快男児だった。
その来栖少佐は、ある日「疾風」でB29迎撃に飛び立ち、1機を撃墜して帰投。再度、迎撃に向かおうと愛機に向けて歩き出したところへ、僚機の「隼」戦闘機のプロペラが接触
頭部切断で即死した。作戦中であり、当然、戦死とされた。
ところが、これをある作家(加賀乙彦)が小説「錨のない船」で、交戦中に敵機の射撃を受け、パラシュート降下したところを住民から敵兵と間違われ、竹槍で刺されて殺された、と述べた。
小説だからそんな話はあっていいのだが、初版では登場人物名はみな架空だった(当たり前だ)。
ところが、改訂時に、その人物の名前を実名(来栖良)に書き直して出版した。
このあまりに事実と異なる描写について、戦友や航空史家が抗議したが、作家は無視。
著者の渡辺洋二は、それで本書の執筆を決意した、と述べている。
例の「従軍慰安婦」の吉田清治もそうだが、フィクションを実話としてでっち上げて、それで商売をする。
あの戦争を、そのような商売の道具にしてよいものであろうか。
こんな人間が文筆家と称して商売できる世の中なのだから、戦後の日本文学のレベルが、戦前戦中と比べても方向が違うだけで、どうにもなっていなかったことは確かであろう。
それでも、吉田清治は「人権屋に利用された私が悪かった」と悔恨とも反省ともつかない弁を述べているが。

ついでに、どうして戦後の日本が「生産技術」に固執したか?(オリジナリティがない、と散々罵倒されたが)エレクトロニクス、オイルシール、あるいは石油化学工業に注力したか。
そして、その流れは、今日の原子力に至るわけでもあるのだが。。。
つまり、その原点が、この陸軍航空審査部の抱いたコンプレックスにある、ということなのだ。
それこそが、尋常でない努力の出発点であった。
戦後日本の技術と戦前戦中日本の技術はあきらかに懸隔しているが、それは単に技術レベルでなく、技術の志向の問題なのである。
そういう問題を考える上でも、たいへん参考になる本であると思う。