Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

宗教は国家を超えるか

「宗教は国家を超えるか」阿満利麿。

個人的な見解であるが、学者は大別して2種類の人種があるように思われる。
1つは、才能が豊であって、学者に適した者。
もう1つは、一般社会では到底通用しないので、やむなく学者になった者である。
私が見るのに、この著者、阿満利麿氏は後者であろう。
「学者」というのは単に「職業」のことであって、その人の賢愚を表したものではないのだが、それをしみじみと感じさせていただける。貴重である(笑)

本書のテーマは、戦前日本の「国家神道」に対して、どうして既存宗教が批判力をもたなかったのかがメインテーマとなっている。
阿満利麿は、このテーマについて、マルキシズムの視点をもって分析しようとするのである。ちょっと考えれば「宗教はアヘンである」はずのマルキシズムを持ってくる「宗教学者」の存在そのものがヘンテコであることは明白だ。
だから、すっごく簡単なことがわからないでいる。何年研究しても、成果が得られまい。無駄である。
仕方がないから、どかできいた風な手あかのついた言説を、ただ繰り返して書いてある。

具体的に指摘しよう。
たとえば天皇制度について、戦前の思想家の「天皇なんぞ、盗賊の大親分で、大したもんではありません」という言説をひいて、考察したつもりになっている。天皇はつまり、国家を盗んだ大盗賊の子孫ではないか?というのである。「ははあ、うまいこと言うなぁ」いかにも、知性派に見えそうな発言だろう?

で、私はこう問うのである。「そりゃ、第何代の天皇のことですか?」と。素朴な疑問であろう。
まさか、この現代において「何百年だか生きたとかいう、初代の神武天皇が実在したと信じているわけではあるまいな?」と。この科学の21世紀の時代に、である。
いいかな?「天皇盗賊子孫説」は「神武天皇が実在した」というトンデモ説を前提条件にしないと成り立たない。中学生でもわかる道理であろう。人間が何百年生きるもんか。
じゃあ、中学生の歴史に基づいて考えればどうなるか?後白河上皇は失敗して、後醍醐帝はいったん成功するものの足利尊氏に裏切られて、はいそれまで。どこが大盗賊なもんか。
明治帝?おいおい、維新時16才のコドモをつかまえて、そこまでの政治能力があったというのは、天皇の神格化も甚だしいと思うじゃないかね(笑)
中学生レベルの歴史を知っていれば、とても紹介できないこんな言説を、得意満面で書物に書くのだから、学者も色々だと思わぬわけにはいかんではないか。

だから、結局「直接の武力を持たぬ天皇が、なぜ搾取する側の支配の正当化装置として」機能してきたかが分かりません、と書いちゃうハメになる。そりゃ、あんたの考えじゃ、何年研究したってわからんだろうよ。

天皇家がなんで権威があるのか?私は答える。「そりゃ、古いからである」
古いから、みんながありがたがってきたんである。なんと、身も蓋もない回答であろうか。
しかし、ならば問う。
なんで、法隆寺が貴重なのか?「古い寺だから」
モヘンジョダロ遺跡は?「古い都市だから」
和銅開弥は「古い硬貨だから」
これらが、古くなかったらどうであろうか?
法隆寺は、ただの寺である。モヘンジョダロは、インドの町。和銅開弥は、びた銭。
こんなの、小学生だって分かる話だ。なにが、日本人の民族性なんぞ、関係あるもんか。古いものは、誰だってありがたいのである。
皇室は、古いから、時の権力者が自分をありがたく見せるのに使ってきただけのことじゃないか。
別に権力者は有り難くないんだもん。

こんな馬鹿みたいな話をえんえんと書いていて、論理の冴えもなにもないし、宗教学者らしい切り込みもない。考察のない本人お気に入りの言説の寄せ集めで、それがすべて。
あきれて巻末のあとがきを読んだら爆笑した。
「阿満利麿の学問は独特である。」だってさ。そりゃそうだ、違いない(笑)

だけど、公平に言わねばならない。この本にも、よいところは一つあるぞ。
「タイトル」
このタイトルひとつに私はだまされたんだからなぁ(笑)

評価は無☆である。タイトルで☆一つ、ってワケにもいかないだろうしなぁ。。。