Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

刀と真剣勝負-日本刀の虚実

「刀と真剣勝負-日本の虚実」渡辺誠

大学の先輩に、居合いの修練を毎日行っている人がいる。その腕の太いこと、胸板の厚いこと、特に背筋のすごさは、酒席で触らせて貰うたびに驚くほかない。きけば、修練は模造刀で行うという。重量は同様であるから、このような修練が可能なのであろう。
聞けば、真剣は登録制で、かつ、とても高価で手が出ぬものであるそうな。
日本刀については、その話から興味をもっていた。
そこで、この本を読んでみた。

どうやらTVのチャンバラは真っ赤なウソということらしい。
真剣は折れやすく、いわゆる「峰打ち」は御法度らしい。つまり「暴れん坊将軍」は自殺行為であって、あれをやると真剣は「硝子のように」ぽっきりと折れてしまい、あわれ将軍は袋だたき、ということのようである。
将軍で思い出した。室町15代将軍義輝は「剣豪将軍」として知られていたが、三好勢に襲われた最期の時に、刀を畳に20振ほど突き刺し、襲いかかる敵を次々と斬ったという。刀は血膏がつくと切れないから、次々刀を代えたらしい。弓を射かけてもことごとく打ち落とした。あまりのすさまじい刀勢におそれをなした攻手は、槍で足下を掬って転ばせ、その上から襖を覆い被せて身動きできないうようにしてから、槍で滅多刺しにしたというからすさまじい。

で、本書によると、刀が戦闘の主役であったのは室町の動乱期だけであるようだ。源平時代は鎧武者による騎射戦が主だった。応仁の乱足軽達の具足が軽くなり、初めて太刀と長巻(手槍の穂が刀になったものと思えばよい)を使うようになる。長巻は、実は赤穂浪士の討ち入りの時も使われて、長く作った拵えを「長巻の心なり」と書いてあったと記憶している。柄が長ければ刃先の速度が速いから、そのぶん切れる道理である。
(室町期の軍忠状をみると負傷はほとんど弓によるものであり、刀が主戦武器だというのは異論があるようである)
戦国時代になると長槍が主力となり、さらに鉄砲へと変遷する。
刀が「武士の魂」として重視されたのは、江戸時代に入って後のことらしい。それまでの刀は、あくまで実用品であり、その他の武器を失った場合の補助であった。
当時の刀の価格を現代に換算すると、100万円で「掘り出し物」と言われていたそうで、普通はもっと高価なものであったようだ。現代で言えばクルマ、もっとも高価な動産である。

モノというのは、実用品であるうちは精神性を求められないものである。
たとえば、音楽を聴くのならミニコンポでいいわけだが、趣味の人はミニコンポではない。
椀だって、生活必需品の飯茶碗は安価で、茶道の茶碗は高い。
してみると、実用でないものが尊いというのが、どうやら価値観であったような気がする。

ならば、モノ以外ではどうだろう?
宗教は尊ばれるが、実用的に何の役に立つというものではない。
書がうまければ、結婚式の宛名書きで便利であるが、今は事務仕事で毛筆はまず使わない。
学問も同様であろう。
子供が「こんなもん勉強したって、何の役に立つの?」と聞くが、役に立たぬから学問は尊いのである。役に立つモノは、刀ではなく包丁であって、尊ばれるわけではない。

してみると、科学だって、役に立たないから尊いのである。アインシュタイン相対性理論を発表したとき、まさか爆弾ができるとは思っていなかった。
役に立つから尊いのではなく、ときには大悲劇を生むことさえあるのだなぁ。

などと、つまらぬことを考えてしまうタネ本としてはいいわけだが(笑)
時代小説が好きな方は、一読しておくと面白いかもしれない。
天下の吉川英治に文句をつけにいった刀マニアの話はなかなか笑える。

評価は☆だなぁ。
ま、日本刀の基本的なことを知るにはいいのかも。この著者が、「ホントは日本刀はすごいんだ、だけどこんな話はあるけどね・・・」という情けない話のほうが引き立っている結果になっている。まあ、実用品の地位を捨てたから尊ばれた訳だから、それでいいんである。