Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

学校について

かねみつさんの教育論は、大きく同意できるところがあった。
特に「勉強」と「学校」を分けて論じた視点は鋭いと思う。
ただ、私の実体験に伴う「学校」観には、ちょっと違いがある。

自分の体験から言えば、小学校とか中学校は、通うこと自体が目的のようなものである。
集団生活とか規律とか、大人になれば当たり前だけど、子供の頃に仕込んでおかないと、後々の社会生活上で困ると思うからだ。単純なルールというものは、「なんで?」もクソもない。個々人がバラバラだと困るから、取り合えず決めてある。
なんで日本の自動車は左側通行なのか?とか、なんで赤信号だと止まれ(つまり、黄色じゃだめのか)なのか?などというのは、まぁ理屈はあるようでない。ただ、とりあえず決めておかないと不便だから、そのように決めたので、ただルールを守ることが要請される。これは、人殺しだの盗みだのイジメだのでも同様だ。本来的には、それはルールであり、超自我である。

しかし、高校以後だと、もっと違いが出る。
だいたい、ちょっと早熟な子供は、小学校や中学校では、そもそも勉強などしなくても困りはしないものだ。テストなぞ、単にケアレスミスとか「ど忘れ」の類の話であって、まあ普通にやってればそれなりの点はとれる。ところが、こういう子供は、そもそも勉強したことがない。だから、高校に行くと、大いに慌てることになる。やっかいな問題が増えるし、その上驚いたことに、みんなそれなりに勉強できる。(というか、ここで怠けてた子供と勉強していた子供の違いが暴露される)慌てて自分も勉強しようと思うわけだが、何しろ今まで、宿題以外についぞ勉強などしたことがないから、やり方がわからない。
そういう意味では、私の経験では、学校で勉強の仕方自体を習った覚えはない。
ただ、あんまり試験の点数が悪いと、自分のアタマの悪さがあからさまになるわけで、高校生といえども体面上があるから、自分なりに初めて工夫をした。

そこで更に驚いたことは、世の中には本当にアタマの良い奴がいることであった。自分は、高校になって慌てたわけだが、ごく少数であるが、なお慌てない奴がいるんである。教科書をいっぺん読んで、大体理解したと言う。試験をすれば、抜き打ちだろうがなんだろうが、良い点をとってしまう。
ああ、自分は「平凡人」なのだ、世の中で決して優秀ではないと思い知った。
自分の器のほどを知ることができたのである。

私は、結局、大学卒業後、ただちに会社勤めをして働くことになった。
私が専攻していた法哲学の教授が、大学院に残らないかと奨めてくれた。しかし、経済状況の問題もあったし、自分の力量のほども理解していた。
平凡な人間であっても、それなりに力を尽くし、多少は社会の役に立って、なんとか日々の糧を得て生きていくことはできるだろう。私は、そういう道を選んだ。
今、特に後悔はしていないし、むしろ今の自分があるのは、そのような平凡な才能を自覚したおかげである。それは、学校のおかげである。
むしろ。
自分に才能があると信じ、周囲がそれを糺すことをしなかったときに、より不幸は訪れるのではないか。
平凡な人生が悪いわけはない。非凡な才能がなくとも、人は立派に生きていける。
素晴らしい才能に恵まれた、たぐいまれな個性など、ごくごく一握りの人間に恵まれたものにすぎぬ。
大多数の人間は、凡庸である。
心配には及ばぬ。凡庸であるから、人は不幸になるのではない。己が凡庸である自覚がないとき、人は不幸になるのだ。
ニートは、実はそういう問題だろうと思っている。あなたは素晴らしい、この世に二人といない個性なのだという理念は、崇高であるが、それ故に多くの人間をダメにするだろう。

学校は、私に、自分の力量をクールに把握した上で、どのように生きていけばよいかを教えてくれた場所だ。素晴らしい教師ではなく、むしろ試験の点数や、才能に恵まれた学友がそれを事実でもって教えてくれた。私は、学校に感謝している。

学問の価値、とはまた別の話である。
学校とは、そういうところではないか、と思っているのだ。