Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

繋がれた明日

繋がれた明日真保裕一

この作者のs小説は、今までハズレだったことがない。本作も、なかなか読み応えがあるテーマである。

主人公は、ガールフレンドにちょっかいをかけられたことに腹を立てて、相手の男を持っていたナイフで刺殺してしまう。その後、少年刑務所に服役中であるが、仮出所したところから物語は始まる。
主人公が社会に復帰しようとすると、殺された男の遺族が嫌がらせを行う。「なんで、たった6年で、出所してくるのか。殺された人間は二度と返らないのに」。
主人公は、初めて、己の犯した罪に向き合うが、彼がどう反省しようとも、確かに殺してしまった男は帰ってはこない。それでは、罪を償うということは、どういうことなのか?
終幕近く、ある事件がおきて、主人公は遺族から「理解」される。ただし、「許された」のでは、ない。

最近、死刑廃止論がある。
私は、死刑廃止論には反対である。いろいろな理由があるが、

1)殺人罪の場合、論理的にその人を「許す」ことができるのは、殺された当人だけのはずである。つまり、遺族が「殺された当人の代理」としてその意志を反映しているかどうかということは、分からない。だから殺人罪においては「生きて罪を償う」という理屈が成立するわけがない。仮にあの世があるとして、初めて殺された人が犯人を許すということがあり得るであろう。

2)世界的な風潮として死刑廃止がある、という理屈は不同意。世界=英米ではない。アジアやアフリカは世界に入らない理屈はないだろう。

3)国家が犯罪被害者または遺族から直接「報復」という手段を奪ったのである。であるから、国家は奪った報復を実行しなければおかしい道理になる。国家は民のものであり、国家が国家のためにあるのではない。だから、民から取り上げた(預かった)報復を実行しなければ、国家の民に対する預託された権利の不履行ということになろう。もしも国家が報復をしないのであれば、民から取り上げた報復の権利を返還し「仇討ち」を認めるべきであろう。

4)死刑廃止論はつまるところ「私の問題」に帰着する。もし、私が罪なき誰かを殺したら、それでも私に「生きる権利」があると思うか?という問題である。私は、イヤであっても、その場合には自分も殺されるという事態を受け入れねばならぬと思う。それがイヤであれば、殺してはならんはずである。この「私」の視点を欠いた議論は、しょせん気楽な他人事、神学論争に等しいだろう。自分が死刑を受け入れる場合があるか否か、それだけが論争の中心だ。その「私」がたくさんあって、後から法はできるものだ。私は、それに値する悪事を私が行った場合に、自分が死刑に処されることを受け入れる。

犯罪者の更生の問題は難しい。
忘れてはならないのは、常に「私自身が犯罪を犯すかもしれない」ことだろう。誰だって、可能性がないわけではないのである。そのとき、罪を犯した「私」が、どうしたら更生できるかと考える。
生きることはつらいことである。そのつらさを、更につらくすることでしか、更生はできない。それでも、人は生に執着する。死を避けられぬと知りつつも、有限の生に執着する。だから、最大の更生は、やはり死をもってしかない。

死刑は犯罪抑止には効果がないとする議論もある。だけど、少なくとも、私には効果がある。

いろいろ考えさせる小説だが、最大のポイントは「犯罪を犯した自分」を想像する際の手がかりになってくれることだろう。
読後感は、人によっておのずと異なるものかもしれない。

評価は☆☆。
この著者なら、もっと、、、と思ってしまった。読者とは、欲張りなものであるのだなぁ。