Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

プリコミットメント論とソフトウェア設計-改憲問題

珍しくカタい記事にトラバさせていただく。
だいたい、私ぐらい大学を出て既に20年くらい経過してしまえば、もはや脳みそはすっかり錆び付いているわけで、立派な議論はできませんが。

プリコミットメント論というのは、とっても乱暴に整理すると「国がコロコロ言うことを変えてしまうと政治が全然信用なくなってしまうから、あらかじめ変えにくいようルールを決めておきましょう。その範囲内の変更なら、大変革じゃないので安定的な国の運用ができます」というハナシのようである。(エーカゲンのオーザッパなので、もとのリンク先を読むヒマがあればご確認願う)

で。私の今の職業柄思う話だが、そのプリコミットメントは「いつまでを想定しているのか?」が気になるのである。すでに私の学んだ時期の法哲学は古びているだろうし、そんな哲学的議論をこの問題に関して行う力もないので(←正直)ただ「基本設計」のあり方が気になる。

ソフトウェア設計を行うときには「いつまでこのシステムが運用されるか?」を考えるのが大変大事なことになる。かつて2000年問題というのがあった。あれは「このシステムが2000年を超えて運用されることがないだろう」と思って暦年を2桁にとったのが問題だったわけである。
実は、すべてのシステムで同じことがあって「データにふるIDを何桁にするか」なんていうのは代表である。「余裕を見て」設計しても「永遠」はない。多くのプログラマは「自分の死後」まで稼働するシステムの設計をしない。自分が死んだ後は、プログラムのメンテはどのみちできないから。

私のソフトウェア的な法理解では、憲法は「OS」であり、実定法が「アプリケーション」であり、民主主義が「アーキテクチャ」である。憲法改正は「OS」のバージョンアップ問題と考える。
その「OS」を「めったやたらに変更するもんではない」というシステム運用の原則を述べたものと理解すれば「プリコミットメント論」は「もっともだ」となる。
しかし「永遠じゃないでしょ?」とも言うのである。「永遠に運用され得るOS」となると、話がいきなり信仰のレベルに飛ぶ。すべてのシステムには、想定耐用年数が存在する。

現在の日本国憲法は、すでに60年の歳月を閲した。60年間の運用に耐えるシステムを設計した先人の知恵には、素直に感嘆する他ない。しかしながら、それでもシステムである限り「永遠ではない」と指摘する。60年間もったなら、充分にプリコミットメントの役割は果たしたじゃないか、というのが私の判断である。

だから、問題なのは、このようなプリコミットメント論が「永遠の期間」を想定したのか。それとも、単にシステム設計の方針を述べたのか?だ。

もしも「永遠の期間」を想定したならば、それは既に信仰の問題である。だから、その時点で議論の対象ではない。

憲法をシステムとして監査するなら、ぼちぼち耐用年数を考える時期であっても不思議はないと思う。なんだかんだいって60年間。それだけで立派なもんだと思うのだけどね。