Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

現代思想のキーワード

現代思想のキーワード」今村仁司

死体から、なんとか使える臓器はないかと探しまわり、うまく使えそうであれば移植する。そうして、すでに死に絶えそうになっている患者を生き延びさせると同時に、よく考えてみれば臓器も生き延びていることになる。
これは、比喩で言っているのだ。
その「死体」とは、「マルクス主義」という。これは、そういう書物である。いたましい努力である。

マルクス主義は、現代思想におけるいまだ高峰であることは間違いない。それは何故か?私が指摘するのは「それが哲学だから」である。

かつて、哲学がギリシアのポリスという都市国家において、奴隷労働によって生まれた「ゆとり」が産んだように、あらゆる学問の中で「王」とされたのは「もっとも役に立たない」からであった。
それに対して、フランシス・ベーコン卿が異議を唱えた。「知は力なり」。イギリス経験論は、ここから帰納的思考法を確立し、自然科学の発達を呼び込んだ。つまり、形而上から形而下へ。
そして、マルクスが登場する。マルクスの登場により、哲学の使命として「まず、実際に労働者を救え」となったのだ。そういう意味で、マルクス主義が出てはじめて、経済学が出来たとも言える。

しかし、実際にマルクス主義は、少なくとも20世紀において「最大の災厄」を招来しただけであった。マルクス主義専制を生み、わずかの生活物資を手に入れるための果てしない行列を生み、たくさんの死者をつくった。そして、革命の契機となる大恐慌も、資本主義の発展に伴う絶対的貧困の拡大もなかった。
著者の今村氏は、これを「マルクス受容の問題」だと言う。マルクス主義そのものが悪いわけではないのだ、と。つまり「資本主義批判としての価値」は、いささかも褪せてはいないと言うのである。

しかし、である。経済学はマルクス主義経済と資本主義経済しかないわけだが、すでにマルクス主義経済はうまくいかないことが実験済みである。史的唯物論の予言は的中しなかった。そして、現代のマルクス主義剰余価値説に基づく需要と価格変動に関する数学的な説明をまったくできないままだ。
これらは何を意味するのか?
すでに、経済学は資本主義経済のことである。経済学から哲学は退場したのだ。
私の思うところは単純であって、「マルクス主義は科学でなかった」と思う。

自然科学というものは、まず「観察」して「法則」を見出す。その理論の正しさを証明するには「実験」をして「追試」をしなければならない。理論が生み出す「予言」が的中しなくてはならない。もしも、実験が理論と一致しなければ、それは「事実が間違い」のことはないので「理論」が違うのである。これが、科学的思考のルールである。
マルクス主義は、そうなっていない。それでいて「科学的社会主義」の建設を目指す。わけがわからない。マルクスの生存した当時と、今と、科学は長足の進歩をしたが、マルクス主義は科学の進歩の恩恵を何一つ得られなかった。科学ではないから科学の進歩の恩恵がないのは当然だろう。

近年の哲学は、法哲学分野への進出の動きが見える。経済がうまくいかなかったから、今度は法を狙っているのであろう。
形而上学は形而上へ帰るべきである。哲学は、象牙の塔へ帰ったらいいだろう。もう世界は、あなたがたを必要としていないように、私には思える。
そうではなくて、現実が生み出した哲学ならば、そうではないかもしれないが。
マルクス自身にとって、マルクス主義は現実から生み出した哲学だったかもしれないが、彼の後継者にとってはそうではなかった。マルクスが感じた「疎外」は、彼の後継者が感じた「疎外」と同じではなかった。マルクスは天才なので「疎外」を感じたかもしれないが、彼の後継者は自己の無能を周囲のせいにして「疎外だ」と言っているだけだった。

評価は無星とする。
あまりに、マルクス主義の失敗に関して、無自覚にすぎる。かつて、マルクス主義を信奉した者が馬鹿揃いだったというなら、そういう総括をする奴も同レベルだろうと思う。

形而上学は、形而上であるが故に尊い形而上学が形而下の救済を目的としたら、それは既に卑しい試みであると言うべきだ。その試みは、形而下の学問にまかせるべきだったと思う。哲学のための哲学は、必要ないと思えてならない。