Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

光る鶴

「光る鶴」島田荘司

ある男が、吉敷警部のもとを尋ねてくる。彼の頼みは、自分の養父を救って欲しいということだった。
彼の養父は、25年前に3人の女性を殺害した罪で収監されている確定死刑囚である。
その男は、25年前の事件当夜に、線路際に捨てられていた捨て子であったのを、養父が警察に通報、保護された。もともと他人であったが、この人は確定死刑囚であるので、通行権を確保するために、養子縁組したのである。
死刑囚本人と面談した吉敷は、冤罪だとの手応えを得る。1日だけ時間をつくり、この死刑囚の再審を勝ち取るため、新証拠を求めて吉敷は動く。
カギは、25年前の捨て子の上に置かれていた「光る鶴」つまり、銀紙で折られた折り鶴であった。。。

島田氏のデビュー作「占星術殺人事件」を大学時に読んだときは、大変な衝撃を受けた。実にこの人から「新本格派」がスタートしたのだなぁ。
以来、なんとなく読み継いで今に至る。

島田氏といえば「死刑廃止論」で有名なのだ。秋吉事件を取材した島田氏は、秋吉死刑囚の主張する「殺したのは3人ではなく1人」だという主張について、相当の合理性を認めることになった。もし仮に殺人者であっても、3人なら死刑でだが1人なら死刑ではない(現在の標準的な量刑では)。
本作品は、この「秋吉事件」をモチーフにした小説である。

評価は☆。
まあまあ、だろうか。島田氏にしては、ちょいと物足りない?
島田氏の「貧者、弱者に対する共感」と、「とにかく大人しくしていれば良いという世間に対する嫌悪」というスタンスは一貫している。それが、死刑論以降の島田作品には、さらに強く出ている。

島田氏の死刑廃止論は、いかなる犯罪であろうとも「冤罪」の可能性を疑い得ないところから来ている。日本の犯罪捜査制度における「代用監獄」制度(世界でも希な悪法)による「起訴後の有罪率95%と、それを支える自白偏重主義」に関する島田氏の指摘は、まさしく私も大いに同感である。

しかしながら、であれば、たとえば衆人環視の中で残虐な犯罪が行われた「池田小学校事件」のような場合、果たして死刑の妥当性はいかがであろうか?まさか、冤罪の可能性がないだろう。それならば、死刑を禁じる根拠がないことになる。
島田氏は、死刑制度の存置に関して「日本人の応報思想が根底にある。人を殺した者は殺されて当然という思想があれば、死刑廃止は難しい」と述べている。これは正しい。

日本の思想界の不幸は、死刑廃止が「人権派サヨク」によって訴求されてしまう事態である。(乱暴な話だが、御容赦いただきたい)つまり、サヨク思想というのはつまり「日本は昔悪いことをしたので、特定アジアに謝罪しつづけ、賠償を未来永劫にわたって行うのが当然」という「応報思想」そのものなのである。歴史観なり人権思想なりというイデオロギーによって、実は「応報思想」を肯定している勢力が、死刑廃止を訴えたら「応報思想」が是か非か、分裂してしまうのは言うまでもあるまい。唯一、納得のいく回答としては「反日」しかない。つまり「日本が応報される」のはオッケー、あとはダメということだ。死刑廃止論が「応報主義からの離脱」としての説得力を持ち得ないのは、この状況では仕方がない。「お前が言うか?」となってしまうのだから。まあ、ご本人達は、この分裂には気づいていないだろうが。。。

なお、右翼思想の主流は「日本が行ったことは自衛である」という主張なので、そもそも応報そのものがいけないと言っているわけではない。むしろ、根強い応報思想があるので「日本が行ったことは自衛である」という前提が崩れた場合は「応報致し方なし」となる。

サヨク、右翼ともに「応報思想」の虜になっている点では共通しているので、しょせん日本人の枠から飛び出た主張ではないのだなぁ。
「死刑はいけない、殺されても応報はいけない、だから日本に過去のことで謝罪だの反省だのを求めることもいけない、みんな憾みを忘れてノンビリ生きましょう」という超天然お気楽思想は、左右両派から支持されないのだろうね。とかくこの世は生きがたい、と思うばかりである。。。