Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

思想なんかいらない生活

「思想なんかいらない生活 」勢古 浩爾。

ついに出た!「ここまで書いていいのか?」まるで新書界の「き○このブログ」と呼びたくなるような、言いたい放題書きまくり、まさに怪文書のごとき著作である。いやあ、よくこれが出版できたもんだ。感心。

著者は、かつては「思想」に憧れ、哲学こそ「全人類にとって、非常に大切なこと」だと信じて哲学書を読む日々を送ったらしい。しかし、ある日、忽然と気づく。つまり「いくら読んでも、ワタシには分からん」という恐るべき事実(笑)である。
著者の衝撃、いかばかりであろうか?「お前はバカだ」という宣告を、自らにしなければならんのである。

で、そこで著者は気づくのである。
「なんで、難しいもの=価値があるもの、と思うのか?」「なんで、思想が万人の人生にとって重要であるという前提が成立するのか?」

ここで、著者は「裸の王様」スタイルをとる。すなわち「哲学者は裸だ!」と叫ぶのである。彼らの言葉なんて、何言っているかわからんぞ。
竹田青嗣は芸がない、橋爪大三郎には思想があるのか?副島隆彦はトンデモだ、柄谷行人はちんぷんかん、加藤典洋はくどい、池田晶子はもったいぶっているだけで空虚、姜尚中は他人の批判は一流だが自分の失言は認めない、と滅多斬り。「わからなかった」というルサンチマンは深いなぁ。

著者が「別格」としたのは吉本隆明であり、インテリとして認めたのは呉智英くらいなものである。

これ、実はアカデミズム批判なんだな。つまり「思想」というものの構造が、「思想クラブ」のメンバーによって議論される「対象」でしかない、ただの知的遊戯じゃないか、と言ってのけたところに、この本の価値がある。思想じゃなく「思想」カッコつきで表される「思想と世間一般で言うもの」に対する批判、そして、その世界にドップリ浸かって思想を論じている先生とその愛読者達に対する批判だと思えば良い。
なんでこういう批判が成立するか?といえば「思想は、万人にとって大事なものなので、哲学者は偉大なのである」という論理の矛盾をつくからだ。そうではなくて「思想は『思想が趣味』の人にとって愉しいので、その人たちにとっては価値がある」が本当じゃないか?つまり、ただの趣味だ、学問に値しないと叫んだのである。

で、この著者の思想は「思想なんかいらない思想」である、というのが結論なんだな。うふふ。

評価は☆☆。
少なくとも、著者の率直さは認めなければいけないし、ちょいと思想書を読んだ人なら楽しめる(笑)ことは間違いない。いいじゃないか、こういうの。
だって、私も大衆なんだからさ。

養老氏の「無思想の発見」と近いスタンスだというのは、両書を読み比べるとすぐわかる。生活がそのまま思想であるという「思想」は、実は「言葉に対する不信」から出発しているのだ。言葉は、要するに言葉じゃないか。「それでも、私たちは、言葉の力を信じない」ということだ。思想そのものを論じているわけでなく、思想を「言葉」にすること自体の不毛さを言うのだな。
日本人に禅が受容されたのも、同じ動機があるように思う。

だけど、この著者が「大衆」ではないことは明白なんだけどね。そういう意味では、私はこの著者の「言葉」をやっぱり信じないなぁ。「信じなくて当たり前だ」と言ってのけた養老氏のほうに、優しさを感じるわけである。