Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

いじめについて

いじめ自殺に関する報道がつづく。マスコミは、ネタになると思えば盛り上がるから、どんどんテレビで放送する。そのテレビを見た子どもが「僕も死んじゃおうか。。。」となっているような気がする。
社会の問題であることは確かだが、報道には自省が必要ではないかとも思う。
もっとも、この国のマスコミに、そんなことは期待できないけどねえ。

思い返せば。
私が小学生の頃だって「いじめ」はあった。いじめっ子もいじめられっ子もいた。昔のイジメが今よりも手加減があった、などと言うつもりもない。子どもは本来的に残酷な面をもっているのだから。

ただ、どうも「いじめられたから自殺する」というケースは少なかったように思う。

マズローの欲求5段階説によれば、人間には「生存の欲求」「安全の欲求」「親和の欲求」「自己主張の欲求」「自己実現の欲求」の5段階がある。ここで大事なのは、実は「その前の段階の欲求が満たされないと、次の欲求が起こらない」ことなのだ。経営でこの説を学んだ人は、この原則を無視して教えられているだろう。だって「安い給料で生活に四苦八苦してるのに、やりがいなんて感じられるわけないじゃん!」などと言ってしまうと、経営コンサルタントの商売あがったりだもんね(笑)。
この欲求の大きさは、従って当然、下の段階のほうが大きなピラミッド型になるわけだ。

「いじめ」というのは、まず「友達がいなくなる=親和の欲求」「暴力を振るわれる=安全の欲求」が脅かされる状態である。どうも思うのだが、最近の子どもの欲求は「ピラミッド型」じゃなくて「ツボ型」つまり「親和の欲求」が突出して大きくなっているのじゃないかな。

喰うや喰わずの生活をしていれば、まず「喰う」ことが目的となる。友達がいようがいまいが、とりあえず明日のメシの心配をしなくてはいけない。
しかし、今の子どものように「喰う心配をしたことがない」と、そのような欲求が退化してしまうのではないだろうか?結果、一番怖いことが「友達がいないこと」になってしまっている。いじめられる=安全が脅かされるなら、安全を確保しなければならんわけで、つまり「戦う」「守る」選択肢が出る。
だけど「友達がいない」に対しては、きっと回答がないのだろう。絶望してしまう。
今のケータイ文化に見られるような「いつでも他人とつながってないと不安」の心理が、ここにあるような気がするのだ。

だから、今の子どもに「いじめられたら戦え!」と言っても、おそらく、そうしないのだろうと思う。

「友達なんていなくても、一人で立派に生きていける。誰からも相手にされなくても、クラスで『グループを作って』と言われて常にぽつんと浮いてしまっても、生きていくのに支障はない」と私なら教えるがなぁ。
自分がそうだったからねえ。

今の先生は、いじめを見つけると、そのいじめっ子に向かって「もうしないね?」と聞く。「うん」と言って、それでお仕舞いなのだそうである。
今の教師は、体罰もできないし、「話し合いで解決」なので、いじめっ子が「もうしない」と言えば、それで彼の仕事はオシマイにできるのである。「きちんと指導しました」
子どもは大人の前では悪辣だから、あとで「ちくったな」と余計いじめる。

友達にして欲しい、仲間に入れて欲しいと思う心が見透かされるので、いじめっ子はかさにかかるのである。
「一人でいいよ。僕は別に友達が欲しいなんて言ってない、仲間にも入りたいと思わない、村八分で結構だ、それこそ私の望むところだ」と言えば、たいていのイジメは止むものなんだが。

それとも、私の時代とは、今は違うのだろうか。