Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

幼年期の終わり


この超古典を、思うところがあって再読。
本作はSF小説史上の「金字塔」「歴史に残る」「ベスト3入り確実」とまで謳われるわけだが、現在読み返して、やはりちょっと古びているな、と思う。
しかし、これが50年代のSFであるということ、そして人類の歴史の終わりを描いたという意味で、欧米では大反響を呼んだのは間違いない。

ある日、ニューヨークの上空に空飛ぶ円盤が現れて、全周波数を通じて「人類は、自己利益追求の愚行をやめるように」と通告される。彼は、超科学をもっている。
いくつかの政府が、円盤を核攻撃するが、円盤はびくともせず、しかし反撃もしない。静かに浮かんだまま。円盤からの報復を畏れた勢力と核攻撃を行った勢力は紛争を起こし、そのまま両政府は瓦解してしまう。また、南アの人種差別をやめさせるため「太陽を消す」といった大技も見せる。
やがて、人類はこの異星人(オーバーロード)の支配を受け入れるようになる。なぜなら、彼の支配によるほうが、はるかに平和で穏やかな生活が送れるからである。地球上から、争いや貧困が徐々になくなっていく。
一方、学問研究などを志す者はいなくなる。なぜなら、今さら何を発見しても、オーバーロードがとっくの昔にしっていることを再発見することにしかならないからだ。
ある日、オーバーロードの母性に鯨を送ることになり、その鯨の腹の中に隠れて一人の密航者が宇宙旅行をする。密航者は、ウラシマ効果によって、80年後の地球に帰還することになる。
そこには、超人類に進化した人類の姿があった。すでに肉体を捨て、精神だけの存在のようなミュータントになった存在である。
オーバーロードはここで真相を語る。彼らは、地球人を導くためにやってきたのではなく、彼らよりもさらに上位の存在(オーバーマインド)の指示に従い、地球を侵略するために来た。それは、地球人類を進化させるためだった。
しかし、地球人類は、オーバーマインドの意図したようには進化しなかった。地球は消滅してしまう。オーバーロード自身は、それ以上進化しない存在で、ただオーバーマインドの指示に従うことに価値を見出している。オーバーマインドが何を考えているかはわからないが、彼らには地球人のような「幼年期」はない。。。

壮大な「地球人類の歴史の終わり」のイメージを示したわけだが、ある種の人々からは批判の対象となった。ひとつは、オーバーロードの支配が「英国がインドを支配した」のと同じようなものとして描かれ、英国による植民地支配の肯定だと勘違いした人達による批判である。
もうひとつは、ここに描かれる世界には、人間が直面する苦悩も迷いもない、血の通っていないいわば「人間が描かれていない小説」だという批判であった。

この両方の批判とも、まったく的外れである。
今日、この小説を「植民地支配の肯定」などと読む人はいなくなった。本作のテーマがそんな部分にないことは、誰の目から見ても明らかだった。
もう一つの批判に対しては、結局「小説観の違い」だということになる。SF小説が目指すのは、人間そのものを描くことではなく、人間が考える思考の枠をどう越えるか(センス・オブ・ワンダー)ということであった。それを感じるのは、読者が人間だからで、つまりは人間の描写が抽象的なのである。
SF小説はこの後「ニューウェーブ運動」によって、思弁的方向に振られるわけだが、この運動そのものが挫折した理由は、古典SFが持っていた抽象性に対して、ニューウェーブ運動が主流小説に偏ってしまったことにあると考える。思弁的ということは、人間の描写ということで考えれば、具体的=直接的であって「抽象的な」表現からは遠ざかってしまった。

評価は☆☆。
やっぱり、3つ星じゃないと思う。
その理由は、時代性というよりも、むしろ文化の問題である。日本人にとって「人類の終わり」という概念は、それほどのインパクトを持たないのではないか。「すべてのものには終焉がある、滅せぬものはない」という世界観の前提があれば、本書のテーマはむしろ「もののあわれ」になってしまう。そういう読み方をする日本人は多いだろう。しかし、それは著者の必ずしも意図ではあるまいと思う。

圧倒的な力をもつ存在に服従することが仮に「侵略」であっても、それが平穏な世界をつくるのであれば、従うことが「善」だと思われる。これに反発する勢力を、クラークは「頑迷な旧世代の原理主義者」として描く。しかし、ラストになって、彼らが善意の支配者ではなかったことも示される。
この結果をどう考えるべきなのか?本書は、いまだに問いを発し続けているのである。