朝顔が庭に沢山咲いたのを見た秀吉は、ウキウキして「おい、利休。見事な朝顔だな。この朝顔を愛でて茶を一服参ろうではないか」と言った。
利休「はは。それでは、準備をいたします。明朝、おいでください」
秀吉「うむ、楽しみじゃのう」と言いつつ、足取りも軽く帰城。
利休「はは。それでは、準備をいたします。明朝、おいでください」
秀吉「うむ、楽しみじゃのう」と言いつつ、足取りも軽く帰城。
翌朝、再び利休の屋敷にきた秀吉は「やや!」と驚く。なんと、あれだけ咲き乱れていた朝顔が、今朝は一輪もない。あやしみながら、茶室に入り「!」そこには、一輪挿しに挿された朝顔があった。侘びの表現として、一輪だけ残した朝顔を茶室に飾る。その一輪を愛でる。秀吉は、しかし、大変不機嫌になった。「帰る」
利休は言ったそうな。「しょせん、風流の分からぬ男よな」
利休は言ったそうな。「しょせん、風流の分からぬ男よな」
しかし。
私は思うのである。これは、利休が悪いのではないか。
私は思うのである。これは、利休が悪いのではないか。
秀吉は、最下層から身を起こして、天下人になった。黄金の茶室をつくり、豪奢な茶の湯を好んだ。秀吉の茶は、カネがあれば誰でも出来る。
利休の茶は、一級の風流人のものである。侘び寂びの境地は、精神の高さ、もっと有り体にいえば教養がなければ理解できない。
秀吉は、最下層出身だから、文字も書けなかった。教養はなかった。後年、天下人になってから文字の手習いをしたが、漢字を覚える年齢はとうに過ぎていた。彼の書いた手紙はひらがなばかり並んでいる。
そんな秀吉にできる茶は、カネにものを言わせた黄金の茶室だけであった。
かのホリエモンは言ったそうだ「カネで買えないものは差別である」
ホリエモンだから、ただのレトリックと人は笑うだろう。しかし、この言葉を秀吉が言ったらどうだろうか。それも利休に。
カネよりも精神が気高いとする。だから、いくらカネがあっても、文化と言うことで見れば、高い境地にいけるわけはない。カネでは風流は買えない。
しかし、そうであれば、カネを持つだけしか能力のない人間はどうしたら良いのだろう?卑賤の身に生まれ、幼いときの教育機会を逃して育った者には、どうしても超えられない壁が存在する。それは、後年、いくら余裕のある生活を手に入れようとも、もはや取り返しのつくことではない。
そういうことを「尊い」とする、その思想の背景に「知識人の傲慢さ」のニオイを、私は嗅ぎつける。
しかし、そうであれば、カネを持つだけしか能力のない人間はどうしたら良いのだろう?卑賤の身に生まれ、幼いときの教育機会を逃して育った者には、どうしても超えられない壁が存在する。それは、後年、いくら余裕のある生活を手に入れようとも、もはや取り返しのつくことではない。
そういうことを「尊い」とする、その思想の背景に「知識人の傲慢さ」のニオイを、私は嗅ぎつける。
秀吉は、どんなに努力しても、もう利休の境地にたどり着くことはできない。利休には、秀吉の茶は理解できる。児戯のように見えたであろう。
そこでことさら、朝顔一輪を飾ってみせる。
この「あざとさ」が、私にはどうも、好ましいものに思えないのだ。
そこでことさら、朝顔一輪を飾ってみせる。
この「あざとさ」が、私にはどうも、好ましいものに思えないのだ。
金持ちがカネを誇れば、知識人は知を誇る。美貌を持つ者は美を誇り、理想を持つものは理想を誇り、歴史を持つ者は歴史を誇り、力を持つものは力を誇る。いずれも同じ、つまらぬことであろう。
「ああ、そうですね」と一言、ただそうすれば良い、ことさらなことをせずとも良かろうに。そう思う。思いつつ、まだ時々、つまらぬことを誇りたい(そうは思わぬが、しかし、そうとられて仕方がないことをしてしまう)自分がいる。
利休を責められないし、秀吉の抱いた悲しみと怒りを思う。
利休を責められないし、秀吉の抱いた悲しみと怒りを思う。
何を言うことがあるだろう。ただ、木偶のようにあるべきではないか、と思うのだ。まだ至らぬ。難儀なことである。