Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

同床異夢---つまらぬ独白

昔、ウガンダにアミンという人食い大統領がいて、こいつの評判ときたら最悪を絵に描いたようだった。で、この大統領が、隣国と不和になったときに「(代表者同士の)ボクシングでカタをつけよう」と提案して、国際社会が呆れたことがある。アミンは元ボクシング選手だったので、俺が出ると息巻いた。相手には「誰でもかかってこい」と挑発をした。
だけど、私は思ったのである。こりゃ、考えようによっては、頗る合理的な提案ではあるまいか、と。両国を焼け野原にして軍隊を出し合うよりは、1対1でカタがつくなら、人名と財産と資源と時間の浪費をしなくて済むではないか、ということである。

馬鹿馬鹿しいこの空想が、実際に成立する条件を考えると、実は「敗者が従う」ことが非常に重要であることに気がついた。
つまり、ボクシングに勝った方は問題ないわけだ。「ホラ、勝ったぞ。貴国政府は臨時的にわが指揮下におかれる」とやる。負けた方が「いやじゃ」と言えば、話はご破算である。どんぱち、どうにもならん。
もうちょっと考えると、実際のボクシングでは、どっちが勝つかは分からない。だから、双方が「勝敗がついて、負けたら勝った方に従う」という共通ルールがないと、これは無意味である。
およそ、国際法とは、実はそのようなものではないだろうかと思うのである。

今、米国はイラクの泥沼化でどうしようもない。
そもそも、考えてみると、イラクとの間に「負けたら、そのときは仕方ない」という共通認識があっただろうか?なんとなく、そんなものはなかった気がするのである。だから泥沼なのではないかなぁ。

日本の場合は、大東亜戦争において「英米と雌雄を決する」という共通理解があったように思う。その背景にあったのは、実は明治以来の「近代化政策=欧米に比肩するという国策」だと思われる。つまり、英米と日本は「どちらが、より近代化された国家か」という同じベクトルで戦ったように思うのである。国は違えど「近代化競争」という同じ価値観上で戦った、ということである。
敗れたということは、つまり英米の方が(悔しいけれど)進んだ国家であった、だから仕方がない、我々は遅れていたのだからこれに従おう、そういう敗戦だったと思う。それ故、敗戦後、さらに「近代化」へ邁進したのではないか、と思うのだ。

だけど、イラクを見ていると、そもそもイスラム原理主義などは、近代化そのものを批判している。殖産も女性の権利も宗教の自由も全く拒否するわけである。これらは、いずれも近代の価値観だ。近代化したイラク市民(一般の商店主や役人など)は「こんな内戦はまっぴらだ」というけれど、テロを起こす原理主義者は、まったくそうでない。米国が「近代国家」である限り、テロは止むことがないだろう。
この両国には、そもそも、共通理解がないのである。

ヘンな話だが、米国の占領政策を見ていると、日本のときと同じことを再現しようとしたわけだな。「昔やった良いこと(苦笑)を、もう一回やって悪いはずがない」
だけど、イラクは、そもそも戦争する以前に、共通の認識がないのだから、戦争で雌雄を決することはできなかったという訳である。

敗者が勝者の価値観に従う、という選択をすれば、そこで平和は成るのである。我が国の徳川家康による元和堰武がそうだった。徳川幕府が偉かったよりも、実は家康に従って矛を収めた(テロなどしなかった)諸侯だって、なかなか度量を見せたというべきではないだろうか、と思う。

そういう意味では、戦争も「負けた方の態度」いかんによって、ずいぶん結果が変わるものだと思うのである、、、と言えば、ちょっと手前味噌に聞こえてしまうだろうかね(苦笑)。
だけど、「和平の招来」の視点から見れば、両国が「同床異夢」であることが問題だろう。夜這いに行った米国が悪い、という意見は傾聴に値するが(苦笑)諦めが肝心だと言うのも、敗戦国の先輩として忠告しちゃいかんのだろうかね。「負けるが勝ち」もあると思うのだけどなぁ。
ま、今さらムリか。。。

私ごときがぐちゃぐちゃ言うべきことではないので、ただの与太話であります。