Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

自分は死なないと思っているヒトへ

「自分は死なないと思っているヒトへ」養老孟司

養老氏の本は、いつも同じ事を繰り返し繰り返し、書いている。だから「養老思想」が嫌いな人は「なんだ、同じような駄本を書きやがって」となる。
私のように、好きな人間は「お、また出たか」と買ってしまう。当たり前だが、前と同じ事が書いてある。前と同じでも、読む当方が違っていれば、そこから違う意味を見出す。ムダではないのである。
それなら、再読すればよい、何も新本を買うことはないとも言える。しかし、新本を買えば、東大教授を退官した養老氏に、なにがしかの収入が入ることになる。
くだらんことだと思われるだろうが、私はそういうことを大事だと思っている。

養老氏の考え方は、ひどく簡単にいってしまうと「都市化=脳化」ということである。今の時代は、脳が優先された時代である。脳の特徴は、すべてを「計画的、目的に沿って」やらなければ気が済まないことにある。
たとえば、日本では、自動車が走ることによって、年間1万人の方々が亡くなる。それを人々は大騒ぎしない。しかし、仮に狂牛病鳥インフルエンザで、1万人が亡くなったら、きっと大騒ぎになるに違いない。「結果は同じ」なのに、なぜ扱いが異なるのか?
それは、実は「交通事故」は、人間がコントロールできると信じているのに対して、疫病は予測不可能だからである。
「交通事故はコントロール可能」とは、例えば事故の原因を、我々はドライバーの責任(法律によって)だと言い、飲酒運転撲滅だという。しかしながら、根本的に、そもそもこれだけ沢山の自動車が走っている以上「必ず事故は起きるので、実は個々のドライバーには罪がない」とは考えないものだ。暗黙のうちに、そういう了解になっているのである。

このように「すべてが予測可能であり、コントロール可能な世界」が都市である。
それは、我々にとって、幸福な世界だとは言えないのではないか。

養老氏が東大を退官するとき「退官してどうするのですか?」と聞いた教授がいたそうだ。「わかりません」と養老氏が応えたら「そんなことで、よく不安になりませんな」と言われた。そこで養老氏は「あなたがいつか死ぬことが分かっているが、いつ、どのように死ぬかは分からない。そんなことが分からなくて、よく不安になりませんな」と応じた。
生と死は、都市に残された「自然」なのである。
高島平団地のエレベータが出棺できないサイズなので、お棺を「立てて」出棺した、そのとき「これは、人は生きて死ぬことを考えられていない建物」だと感じたとある。養老氏のやるせない気持ちが、よく伝わる文章だと思う。

評価は☆☆である。
読んで損はない、この人の本について私はそう思うけど、分からない人には分からないのだろうね。

ところで、面白い話が載っていた。
儒教は「都市」の宗教で、仏教は「自然」の宗教だという対比である。
馬小屋が火事になって、人が孔子に知らせに来る。孔子いわく「人に怪我はないか?」
さすが孔子だ、と中国人は思う。
ところが、日本人はこれを落語の笑い話にする。「偉い人だっていうのに、馬小屋が火事になったら馬が怪我をすることくらいがわかんねえのかねぇ」という訳だ。
徹頭徹尾「人」の宗教と、「自然」とつながる宗教。
論語」には、植物や動物の名前がひとつも出てこない。
仏教が残っているのは、スリランカビルマチベットブータン、タイ、日本。みな「辺境」の国家である。
養老氏は「仏教が都市化すると、都合が悪いことが起きるのではないか」「オウム真理教の問題は、実は都市化した仏教の問題だったと思っている」と書いている。
なるほどなあ、と深く感心したのである。