Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

恬淡とする

さて、「上杉」シリーズである。この手の与太話は適当に思いだして書いているので(笑)

関ヶ原の戦いで、上杉家は米沢に転封になってしまった。会津時代は、およそ百万石あったはずである。徳川時代に「加賀百万石」と称した前田家が有名だが、上杉はその前に百万石あったのである。ついでにいえば、越後の謙信の時代には、およそ越後60万石くらいだと思うが、更に海運と佐渡金山があって、だいたい実収は百万石だったと言われている。それ故、領土欲のない謙信が、連年の出兵に耐えられたわけである。

さて、米沢はだいたい30万石。つまり、藩の収入が1/3になってしまう。そこで、家老の直江兼続は「去る者は止めぬ」とおふれを出した。今で言う「自主退職」をすすめたわけであるな。ところが、応募者がほとんどいなかった。
そこで、次は「じゃあ、領地も1/3にする」と言い渡した。そうしなければ、やっていけない。さすがに、これでやめるだろうと思った。何しろ、今で言えば「給料を1/3にする」みたいなことであるから。それでも、誰も辞めてくれない。上杉家中は皆「どんな貧乏してもいいから連れて行ってくれ」と言う。仕方がないから、家臣をみなそのまま連れて行った。
これには、他の大名があきれた。「やっていけるわけがない」

家老の直江は、まず自分の領地を1/3にした。そうしたら、主君の景勝も、自分の給料を同じく1/3にしてしまった。いつものように一言命じただけであったという。
で、家臣もすべてこれに習った。上杉の家中は文字通り、赤貧洗うがごとし有様となった。

当時の江戸で、新しい鍋や釜に「上杉」と書いた札を貼るのが流行ったそうである。「金気が抜ける」というのである。駄洒落であるけど、それぐらい貧乏になった。

上杉家中で有名な前田慶次郎長益がいる。彼も、会津時代は広壮な屋敷を構えていたが、米沢に移ったら録を返上し、改めて小さな領地を貰って、屋敷をやめて草庵を建ててくらした。茶が好きであったので、茶碗を一つ、立派なのを持っていて「これで良い」と恬淡としていたという。

上杉主従もそうだった。
江戸城に景勝、直江の主従が登城するときのことである。当時は、まだ豊臣の遺風が残っており、当然諸大名はきらびやかな絹の衣服を着ている。ところが、上杉主従だけは、粗末な木綿の衣服を着ていた。それで平然としていたそうである。
「お前達は皆、内府の手の下で働いた者達ではないか、我らは違う」と思っていたのだろうなぁ。
直江は「もし、あのまま家康が会津に進撃してきたら、惜しいところであった」と思っていたようだ。

この天下の貧乏軍団(笑)の上杉であるが、大阪の陣では先鋒を命じられ、すさまじい働きをした。あまりに凄い戦いをしたので、家康自ら「明日は後陣に回って良い」と命じたほどである。

直江は家中の殖産興業につとめ、上杉の財政は、後に立ち直る。その財政が、だんだん豊かな生活に慣れたために再び逼迫して危機に陥るのであるが、そのとき藩政改革に現れたのが有名な上杉鷹山である。