Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

名利を求めず

さて「上杉シリーズ」3回目である。
我ながら調子に乗る性格であるよなあ(笑)

「上杉」といえば、何をおいても「上杉鷹山」を挙げねばなるまい。困窮きわまる上杉家を、秋月家からの養子でありながら再建した名君である。
「なせばなる、なさねばならぬ、なにごとも、なさぬは人のなさぬなりけり」で有名である。この歌を、私は小学校4年生のときに暗唱させられた(苦笑)されど、と思う。なんと、素晴らしい教育であることか!私の小学校の村田先生は名教師であったと思うのだけどね(笑)!

で、その上杉鷹山は、藩政改革をするにあたって、竹俣当綱を起用する。彼は身分は低いが、能力は一級であった。その竹俣は、身分が低かったので、城内に執務室をもてなかった。
そこで、鷹山は、竹俣に廊下の一隅を与えて、その執務室としたのである。
竹俣ばかりではなく、彼のように能力があって執務室のもてない連中の部屋が廊下に並ぶことになった。しきたりにうるさい年寄り連中も「いや、そうではない。見よ、彼らは廊下で仕事をしているのである」と言われれば、何も言うことはできなかったのである。
竹俣達は「廊下衆」と呼ばれるようになった。身分によらず、廊下で仕事をしている、本当に能力のある偉い人たちだと思われるようになったのである。

鷹山は、35歳で隠居して、次代に譲った。鷹山の藩政改革が実ったのは、鷹山の隠居後である。改革がその実を挙げるには時間がかかるし、その間に改革の芽をつぶさぬように育てることも必要であろう。
鷹山は、それを理解して早く隠居して、後見に徹したのだと言う。

しかし、私は思うのである。鷹山も人の子である。いろいろ困難を伴うであろう改革が、つらくないはずもあるまい。当時の人生は50年であった。義務は果たさなければならないが、早くに隠居して、短い老い先の自由を楽しみたかったとしても、決して鷹山公の偉業をけなすことにはあたるまい。

私もぼつぼつ年をとってきたので、鷹山公の隠居年齢を10年も上回るまで、さほど遠い未来ではなくなってきた。ぼつぼつ、良い頃であろうと思う。
早く「廊下衆」を育てて、日がな一日、自転車の上で暮らしていく人生を送りたいと思っているのである。