Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

反骨の男

「上杉シリーズ」いいかげんにしろ、と言う話だとは思うが。まあ、与太話というのはそんなもんであるから、大目に見て欲しいことであるよ。

さて、武田信玄といえば「武田二十四神将」が有名だ。こんなものは、甲州流軍学でメシを食った小幡影憲あたりの創作なのであるが、宣伝がよく効いて有名である。それに比べて、上杉の二十四神将はだいぶ落ちるイメージがある。だいたい、武田の天才軍師(というふれこみ)である山本勘助に比べて、上杉の宇佐美定満の地味さはどうだろう?(だけど、本当にすごいのは宇佐美であるかもしれない)

しかし、である。私は、武田二十四将には懐疑的なのである。なぜって、あまりに「信玄に都合が良すぎ」だからだ。皆、武田の話をするとき「自分が信玄だったら」と思うらしい。馬鹿馬鹿しい、それは「使うのに都合がよい人物」を高評価しているに過ぎぬではないかな。

そういう意味で、私が「立場を超えて」もっとも評価するのは、上杉麾下の勇将「本庄繁長」である。この武将こそ、上杉武田の両武将の中で白眉であると思う。この武将ほど、剽悍な男もいない。

本庄繁長は、謙信在世中に、なんと3度も謀反を起こした。その都度、謙信は繁長を攻め、降参した繁長を許している。謙信は、実によく家臣に謀反された。この点、信玄とは別である。しかし、その家臣を何度も許してしまうのだ。それが謙信なのである。

さて、本庄繁長は、会津に景勝が転勤になると、信夫郡福島城の城主になった。そこで、例の関ヶ原が生起する。家康と気脈を通じた伊達政宗が、上杉領に攻め込んでくるのである。
守る本条繁長は、伊達軍2万、その他の一揆軍や小荷駄隊2万の合計4万に対して、総勢2千の軍で守備についた。進撃する伊達軍に先制攻撃をかけたものの兵力不足により敗退、やむなく籠城して絶体絶命の危機に陥る。
しかし、伊達軍の後背を遊軍の須田満親軍がついて、伊達軍が混乱したのを見て取るや、直ちに出撃。見事な挟撃策によって、なんと自軍の20倍にあたる伊達軍を撃破、敗退させる。これによって、上杉軍は徳川により転封されるまで、会津120万石の防衛に成功した。まこと日本戦史上に残る、鮮やかな奇襲作戦であった。ときに本庄繁長は還暦だった。見事というほか言葉がない。

本庄繁長は、景勝が米沢に転封された後、1万石の封土が3300石になってしまう。給料が1/3になってしまうのである。
それでも、本庄繁長は、年少の直江兼続と力を合わせて、上杉家の再建に晩年を捧げるのである。謙信に3度も謀反した反骨の男が示した真の献身であった。

上杉家が関ヶ原の後、取りつぶしの危機にあったとき、上杉景勝は本庄繁長に、親族の本田正信を通じて和睦するように命じる。これに難色を示したのが家臣の直江兼続である。「あれは裏切りものですぞ」
しかし、景勝は繁長を信じた。「繁長は武士(もののふ)である。窮鳥が懐に飛び込んだら、守るほかない」その通りであった。

なんども謙信に背きながら、その謙信が死んでしまった後、忠誠を尽くした本庄繁長。困ったひねくれ者である。そのひねくれ者が、命をかけて主家を助けた。これこそ、侍というべき痛快な歴史だろうと思うのだなあ。