Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

生物と無生物のあいだ


帯状疱疹ヘルペスウィルスに苦しんだところから、高校時代の生物の教師の言葉を思い出した。
「ウィルスは生物と無生物の間である」
それで、帯状疱疹の苦痛の合間に本書を読む。著者の福岡氏は前著「もう牛を食べても安心か」を読んでから信用している。
信用というのは、私が著者の見解の当否を判断できるという意味でない。そんなことはできない。ただ、その生物に対する畏敬の念が伝わってきて、それを信用しているのである。

著者は言う。「ウィルスは、私の考えでは生物ではない」
そして、シェーンハイマーの生物観を伝える。生物は「流れ」そのものである。

私たちの体を構成する分子は、内臓や筋肉は言うに及ばず、歯や骨、一生の間増えることがないといわれている脳細胞ですら、次々と崩壊しかつ作られている。
私たちは、数年ぶりに会った友人に言うだろう「おかわりありませんね」
実は、数年前の友人を形作っていた分子は、すでにほとんどが流れ去り、入れ替わった後である。「おかわりありまくり」が、物質的にみた場合の真実なのである。

生物の定義として「自己複製する」は有名である。
しからば、コンピュータウィルスは、確かに自己複製するが、それを生物といえるであろうか?
アップルコンピュータの工場では、マックというコンピュータを作っているのは、実はマックなのである。工場のロボットにはみんなマックがつながれている。では、マックは生物だろうか。

ハードSFの世界では「生物である」と定義した作品が数多い。日本では堀晃のトリニティシリーズがそうだ。人類は、シリコン生命体を作り出すための前世代生物であるという。
だけど、やっぱりそれは「小説」にしかならない。

著者は、生物における細胞膜の研究をしている。
著者が子供のころ、トカゲの卵を拾った。その卵を、毎日温めて孵化をまった。しかし、なかなか卵はかえらない(トカゲの卵は孵化するのに時間がかかる)
待ちきれなくなった著者は、トカゲの卵の殻に穴をあける。「ちょっとのぞくだけなら大丈夫だろう」
果たして、卵の中には、卵黄を抱いた小さなトカゲの赤ちゃんが眠っていた。著者は、接着剤で殻を閉じるのだが、いったん外気に触れた赤ちゃんは、殻を閉じて元には戻れない。赤ちゃんは、やがて腐り、形がなくなってしまう。
それを見て、少年時代の著者は心の痛みと生物に対する畏敬の念を覚えるのである。

命が尊いのは、人間の頭で考えたことではない。
人間の頭を超えたところに、生命の偉大さはある。
環境問題や平和問題も同じだと思う。人の頭で考えた理想(それはドグマかもしれない)でモノを判断して、主張する人を私は信用できない。そのものをよく知れば、おのずと態度は決まるだろう。
「しかし、ずべての人がそんな暇はないじゃないか」
そうだろうと思う。それならルールを作って、暇がない人にも不都合な行動がないようにしていただくほかはないだろうな。
「どうして人を殺しちゃいけないの」
いけないものはいけない。その理由が分からないのは、あんたが分からない人間なのだから仕方がない。分からないなら、ルールに従うべきだろう。だって、そこまでの見識がないんだから。
わかったつもりになっている場合は?微苦笑するだけだろうねえ。

評価は☆☆☆。

読んで損はない。ヒステリックな「環境派」「生命は地球よりも重い」なんて主張にうさんくささを感じて仕方がない人にもお勧めしたい。
本当の「知」とは、たぶんこんなことだろうと思う。「思想」なんて「絵空事」に心を砕く暇はないのじゃないか、と思うのだ。