Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

喪失の国、日本

「喪失の国、日本」M.K.シャルマ 山田和訳。

かつて「イザヤ・ベンダサン」名義の「日本人とユダヤ人」という本があった。実は、山本七平が書いたとされる。本書も、そのような「日本人論」に近い。
すると、訳者の山田和氏がにおいますな(笑)

設定(笑)は、インドのエリートビジネスマンが、日本の視察に90年代の1年8か月を過ごした、という回想記の形をとる。
なかなか、おもしろい指摘がある。
たとえば
「大きなホテルや商店では、釣り銭は新札で渡される。誰もおつりを確かめない。ごまかす者はいない」
「銀行で両替すると、帯封で止めてある。ホッチキスでない。誰もごまかすものがいないのだろうか」
「マンションの共用部分は、皆で楽しむものではなく、歩行以外禁止の部分であった」
「清潔を重んずる日本人が、湯豆腐は直箸でとる」
「スーパーで売られている野菜は、すべてぴかぴかで、工業製品のよう。どう栽培すればこうなるのか、私にはわからない」
など。

なかなかおもしろく読めた。日本人が外国に行ってカルチャーショックを受ける国の筆頭はインドだと思うが、そのインド人が日本に来たら?という設定は非常におもしろい。

評価は☆☆。読んで損はない。

で、日本は「何」を喪失したのか?

インドでは、物を売り買いするのに、値段はすべて交渉で決まる。それは、非能率だし、相手によってはふっかけるなど、日本人にとっては不実に見えるのかもしれない。しかし、逆に、物の売り買いが「人生のふれあい」そのものになるわけだし、裕福な相手からは高い値段を取るのは「平等」かもしれない。

巻末に近く、著者は言う。
「日本人の平和主義は底が浅い。日本の平和主義者は戦争はいけない、相手が攻めてきたらどうするかと聞けば、ガンジーのように非暴力であるべきだという。ガンジーは、武力による抵抗を否定していない。暴力を認めた地平から立ち上がってくる非暴力を、日本人は理解していない。彼らの妻子が殺されたら、自分がいかに甘い考えであるか、思い知るだろう」
ダッカ人質事件で、我々が驚いたのは、日本人が政府に『毅然とした態度をとらない』ことを批判しているだけで、このような事態に対応する基準を議論してなかったことだった」
「日本人は、少なくとも大アジア主義を捨てた。(中略)しかし、彼らが敬愛するパル判事の日本無罪論は、戦勝国に裁く権利がないから無罪としたのであって、日本の行為を肯定したのではない。彼ら日本の民族主義者の主張に首肯できる部分はあるように思うが、しかし、きちんとした経緯の分析の視点に欠けている。それは、ただ情念で勝算の少ない戦争に突入したときと同じである。彼らは動機や情念を重んじて、しばしば結果を忘れる」
「A国があり、B国があり、C国があれば、それぞれに正義があるのが普通である。それをどう思うか?と聞けば、とにかく戦争はいけないと答える。この国のマークシート方式という試験とそっくりである。課程がどんなに正しくても、わずかでも間違いがあれば間違いであり、全く偶然でも正しければそれで良いとする」

いろいろな正義、様々な立場、それぞれの事情。それを並べて考えるのでなければ考えることにならないのである。

ふと思ったことだが。
「屁理屈」と言われて久しい私であるが、インド人と議論するのには向いているのかもしれないなぁ(笑)本書がホンモノのインド人が書いた、としての話だけどね。