Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

M谷の話

高校生のとき、Iという友人がいた。
私は、既にその頃より偏屈な男であったので、友人はすこぶる少なかった。そんな私とつきあってくれたのがIである。
彼は、たいへん文系のアタマを持っていた。つまり、数学が苦手だったのだ。そこでIは「俺は、次の試験で生まれ変わる」と宣言した。暇さえあれば、数学の参考書を開き、例題を解いていた。私が見ていても「これは違う!」と思ったほどだった。

1ヶ月後。「実力テスト」が行われ、Iは自信満々であった。そのテストが返却されたときのIの顔を忘れることはできない。「・・・」
ああ、Iの数学テストは「零点」だったのである!すべての問題の考え方からして違うので、部分点すら貰えなかった。あまりに見事だったので、同情を通り越し、私は吹き出した。Iは無言だったが、しばらくしてやっぱり吹き出した。二人で大笑いし、その後Iは言った。「オレ、文系にするわ」それがよかろう、と私も言った。人生、努力したから勝てるなんて、そりゃ少年ジャンプの中だけの話である。
とにかく、Iは万事につけて、気持ちのよい男だった。

そのIについて、私の父親が「あまり深く付き合うな」と言ったことがある。
なんで?と私は聞いた。
「だって、Iは、M谷の者だろう」
私は反発した。「そんなの、関係ないじゃないか」

M谷は、俗にいう被差別部落ではない。実は、私の育った城下町で、戦国時代に豊臣秀吉と戦があった。毛利方であった武将は城に籠城。そのとき、実は城の搦め手から細い抜け道があり、そこを通じて将兵達の露命をつなぐ水や食料が細々と運び込まれていた。
なかなか落ちない城に業を煮やした秀吉は、抜け道の存在を疑って、密告した者に褒美を出すと言った。城下の民は、みな黙っていたが、その抜け道があるM谷の連中が秀吉に密告した。
城は頼みの綱の糧道を断たれて、壮絶な飢餓地獄となり落城した。

以来、市中の人間は「M谷の者は、信用してはならない」というようになった。古い城下町であり、それが連綿と続いているのだった。

私は、Iに、この無理解の父親の話をこっそり打ち明けた。
Iは言った。
「そういう話があることを、俺だって承知しているさ。ひどい話だとも思う。だけどな。もう300年くらい昔の話だし、俺がM谷に生まれたのは俺のせいではない。生まれは、本人の力ではどうにもならない。それを言われても困る」
私は、深く納得した。
Iは、親は選べぬ、と至極当たり前のことを述べたのであった。
私はM谷に生まれなかったが、Iと私を比べて、なんら人として変わるところはないし、私だってM谷に生まれたら同じように言われただろう。
「くだらないことだな」
私とIとは顔を見合わせて、お互いにうなずきあった。

以来、先祖がやったことがなんであろうが、その子孫には関係ないというのが私の信念になった。これぞ「差別」を生む、最大の温床たる考え方だと気づいたからだ。

昨今うるさい「歴史問題」だって、実は「差別問題」じゃないか、と私は疑っている。当時の日本人を責めるかどうかは勝手だろうが、戦後の日本人にとっては関係ない。親は選べないのだから。

Iとは、卒業以来会っていない。元気にしているだろうか。少なくとも、人を生まれによって差別する見解には、すべてノーだとハッキリ言えるようになり、その考え方が間違っていると思ったこともない。
Iのおかげである。