Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

法哲学入門

法哲学入門」長尾龍一

大学以来、法哲学の世界から遠ざかっている。復習と思って読んだ。やっぱり、法哲学の世界は大きく変わっていないようだ。

法哲学とは何か?実は、回答は法哲学者の数だけある(!)ので、結局「法哲学とは何か」が、大学の講義を一年聴いてもわからなかったりする。

この疑問は、実は「法とは何か?」に結びつく。

私の大学時代の考え方は「強制説」であり、実定法論であった。わかりやすく言えば、法の本質は「強制」にある。もしも強制力がなければ、法はただの「勧告」に過ぎなくなる。「判決主文:甲は乙に100万円の金員を支払え。」
こんな判決、もしも強制力がなければ、タダの紙くずである。

しからば、である。あなたが、気に入らないやつをぶん殴ることにことにして、傷害の罰金50万円を用意して「ぶん殴る」のはどうか?もちろん、首尾良くぶん殴った暁には「法に従って」50万円を支払うのだ。

「強制説」では、これを認めるのである。強制説において、法が強制できるのは「50万円の罰金」だけである。「ぶん殴る」を止める力は、法にはないのである。
これに対して「いや、ぶん殴ること自体を法は禁じているのだ」と主張するのが「規範説」ということになる。

これらの問題を突き詰めると、法哲学の主要テーマである「自然法」(人類普遍の法)が存在するのかどうか?という問題にぶち当たる。
もちろん「規範説」は、自然法の存在を(大筋では)認めることになる。一方で、「自然法」によらない法律は「法の名に値しない」し、既存の手続法は、細かい問題はあるけれど、だいたい自然法を体現したものであると考えるのである。

実定法論では、このような考えをとらない。「強制説」では、ある法が「法である」というのは、その法を強制する力があるからだ、となる。「そう決めたから、そう決めたのだ」というわけである。一面で「力こそ正義」という思想であるわけだが、現実には毛沢東が指摘したとおり「銃口から政権は生まれる
」のである。合衆国憲法も、日本国憲法も、米国の暴力が生んだのであるから。

評価は☆☆。

法哲学にご興味を持った方は、読んでみられると良い。すると「法哲学とは何か」よけいわからなくなることだろうと思う。
それで良いのである。法哲学とは、そういう学問であって、それを追い続けている(存在と当為が一致しない)のが哲学の「知を求める」ということなのであるから。
一方で、哲学の著作は詩人の著作と違って、常に先陣の著作を打ち倒すことを目的としている。カントはアリストテレスを批判し、そのカントをヘーゲルが批判し、そのヘーゲルキルケゴールが、あるいはマルクスが批判し、マルクスを継承したサルトル構造主義の前に論破されたごとくである。
生まれながらの猛獣が「哲学」であるということも、忘れるべきではないだろう。