Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

言葉の前に

私の家の先祖は、代々曹洞宗である。私の父親は入り婿であるが、その父の実家は臨済宗だ。偶然、どちらも禅である。

私は、仏教には素人である。それでも、禅には、やはり心ひかれるものがある。

宗教とは、人の心の救いであるという。「救われたい」という人にとって、たしかに宗教は救いだろうと思う。だけど、それならば、たとえば絵画や音楽、文学、あるいは哲学といったもの、あるいはスポーツや愛などといったものが、「救い」にならないことがあるだろうか?
当然、それらも「救い」に生り得る。

ならば、宗教は、そういうものたちと同じ価値ということになる。

私は、実はそうだとは思わないのである。宗教は、人を救わなくても良いと思う。
人生の道しるべなどにならずとも良い。それなら「道徳」じゃないか。道徳は宗教じゃないだろう。

宗教で余計だと思うのは「教義」である。「教義」とは何か?それは「言葉」だろう。「言葉」は、人がつくったものである。言葉で語られるものは、皆、意図がある。

もしも「救われる」ことが目的なら、教義は「人を救うための道具」になる。

どうも曹洞宗を見ていると、理屈がない。教義が語られない。ただ座り、掃除をして、粥を食っている。これでは救われぬ、と夏目漱石は言った。漱石の言葉は正しいのだと思う。

救ったり、救われたり、あるいは言葉にしたり、心のよりどころにする。そういうことのすべてが、もはや私には関心がなくなってきた。人生が苦しいのは分かった。どうにもならぬのも分かった。いかんともしがたい。
救われるものなら救われたいが、そうでなくても仕方がないと思うようになった。何かといえば「言葉」が出てしまう自分であるが、それはそれで仕方がない。言葉を離れることはできないだろうし、それを望んですらいない。もうよいと思う。

宗教は、そんな私と離れて、そこにあれば良い。役に立つとかたたぬとか、善だとか悪だとかもいらない。言葉にならない、その前の存在である。

立派な教義がある宗教は、原始的な宗教であるアニミズムのようなものを否定するだろう。「あんなものは宗教ではない、何も人を救わないじゃないか」

だけど、私は、そういう言葉以前のようなものがいいなぁ。死ねば言葉はないだろう。

そういえば。きっと女性にもてないのも「言葉」が先に立つからじゃないかな。恋愛も、考えようによっては修行だということである。
そんなことを考えている時点でダメか(苦笑)