Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

ビートたけしと団塊アナキズム


ビートたけしという芸人が、なんであんなに支持されるのか?その原因を、著者はビートたけしの世代論、つまり団塊の先頭グループという位置づけの中から探ろうとする。

ビートたけしの「反権威」(いわゆる反権力ではない)は、団塊世代の「いきなりころっと言うことが変わっちゃった権威」に対する根本的な不信感と、にも関わらず物質的には年々豊かになっていく、ある意味ではセーフティネット付きの反抗精神(?)に支えられたものだ、という指摘。
彼がいわゆる「モラリスト」である反面、妙に反権威主義だったり、出版社に殴り込みをかけちゃったにも関わらず復帰が許されちゃったりする現象を、その団塊世代(よりちょっと上か)の支持に求める考察である。

評価は無印。
これ、今年度ベストワンの駄本である。

読後、非常な徒労感がつきまとうのだ。もちろん、本書が読むのに難儀するわけではない。すいすいと読める。読めるけれども、考察が浅すぎる。なーんにも残らない。空気である。
空気は罪がないけれど、この本は結構な紙を使って印刷して空気だから、たいへん始末が悪い。
この本を読むくらいなら、cancanを買ってきて可愛いエビちゃんの写真を眺めていたほうが遙かによい。(ただし、40過ぎの独身男がcancanを本屋で買うのは、中学生がエロ雑誌を買うよりも恥ずかしいと思われる。私は実践できないですなぁ)

余談だけど。
私は、ビートたけしは今の「どうでもよくなっちゃった日本人」の嚆矢だと思っている。「赤信号 みんなで渡れば こわくない」は、日本人の本音をついた秀逸なギャグだった。そのギャグが、いつしか「本音のほうがすばらしい」という主張に変化していく。
これは、実は天皇制に対する日本人のスタンスの変化と関係あるのではないか、と思うのである。従前の日本人だって「赤信号 ~」と思っていたのに相違ない。しかし、実際にそうする人は少なかった。それを「恥」の文化とは私は思わない。そうではなくて「建前」が生きていたのである。天皇陛下が「建前」の究極のシンボルであることは間違いない。日本人は天皇に「建前」を預けておき、その上で本音を生きる民族であったと思うのである。
それが、だんだんと天皇神話が色あせてくるにつれ、天皇に預けておいた建前が戻ってくる。建前が戻ってきた日本人は、その処理に困ったのである。そこで「本音と建て前の対立論」という「弁証法的」な構造把握を行って「本音のほうがすばらしい」というルールをつくることにして、建前は放棄することにした。
今、赤信号を平気で渡ろうとする人に注意をすると、彼らが必ず言うのは「お前には関係ないじゃん」という台詞である。「関係なくない、同じ日本人じゃないか」といってやるとギョッとする。天皇のところから戻ってきた「建前」じゃないか、と言ってやるから驚くのである。

「お前には関係ないじゃん」という台詞には「みんなで渡れば」の「みんな」がもう抜けている。「建前」を捨てて「本音」でいきることにしたら、いつのまにか「みんな」が無くなっていた。だから「自分さえ良ければよい」になった。明快であろう。
捨てたものは何か。こんなハッキリした話はないのである。

などと考えていたわけだが。

ま、本書にならって私も「ビートたけし論」を書いてみたわけだが、やっぱりくだらないねえ。くたびれただけである。