Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

だから君らは軽蔑される

最近の若い人のように、マスコミを「マスゴミ」と蔑称するだけの勇気を私は持ち合わせていないけれど、それでも一言、もの申す。

最近の「小池防衛大臣事務次官」問題を、「安倍首相の指導力のなさ」などと「安倍タタキ」に利用する、その不見識について述べる。総理大臣憎さのあまり、知性の欠片もない人種がマスコミだと、私は今回の件でよくよくわかった。

まず、事件について簡単に述べる。早い話が、防衛事務次官の後任人事に関して、小池防衛大臣の意向を現防衛事務次官が納得せずに争いになった、というものであった。

中学校で公民を習った日本人ならば、誰でも知っている。
政治家を「選良」といい、役人を「公僕」という。政治家は主権者たる国民の代表であり、公僕はこれに仕えるものである。されば、防衛次官の人事に関して、選良=「国民」の意向に公僕=木っ端役人が逆らった、というのが今回の事件の本質である。議論を要する問題ではない。

そればかりでなく、今回は防衛庁の問題であるから、シビリアンコントロール文民統制の問題にもつながる。日本国憲法は、戦前の大日本帝国憲法のシステム的な問題「統帥権独立」の弊害に対して、明確なシビリアンコントロールを規定している。軍事政権の国を例外として、軍は政治家に服さなければならぬ。これは、民主国家であるための、当然のルールである。

戦前に、宇垣一成に大命降下したことがあった。ところが、宇垣は軍縮論者であったから、陸軍が「陸軍大臣を出さぬ」とごねて、ついに組閣が出来ず、宇垣内閣は流産してしまう。以後、内閣は陸軍の顔色を伺う腰抜け揃いとなって、ついに国を誤る結果になったのである。
この原因は「統帥権干犯」すなわち、軍を統率する権利が天皇直轄であった故に、政治に対して軍が従わぬ事態が合理化されてしまった点にあった。
よく考えてみれば「大命降下」は当時の天皇(=主権者)の意志であって、これに沿わない軍など許されようはずもないのである。それを許してしまい、ついに軍の暴走を招いた。この点は、やはり国家運営の問題として謙虚に反省されるべき事項である。
以後、世界の趨勢は当然に「シビリアンコントロール」であり、政治に軍は服さねばならぬのである。もちろん、公僕として当たり前のことであって、「選挙のたびに受かったり落ちたりするような政治家に人事をいじられてたまるか」と考えるのであれば、そういう人はそもそも公僕になってはいけない。

私が怒っているのは、こういうことである。
つまり、日本のマスコミ人は、それなりの高等教育を受け、また知識見識もあるはずであろう。シビリアンコントロールも、戦前の統帥権干犯問題も、知らぬはずはない。であれば、防衛事務次官が、大臣の意向に従わぬことが、いかに危ういことであるか、知らぬとは思えない。
それでも、今は「安倍タタキ」が優先だ、というわけである。だから、このような本質的な問題にほおかむりを決め込むのである。
これを、知的誠実さの欠如と言われても仕方があるまい。
もしも文民統制統帥権干犯問題を知らなかったと申すならば、それは公共のメディアを扱うだけの知識がない、無教養で不適な人種だというばかりである。
まさか、そうではあるまい。

知的誠実さよりも、自分のイデオロギーが大事だ、というのは今のマスコミ人の姿なのではないか。だとすれば、「本当にくだらぬ、信用できぬ人物」達だというほかはない。

だから君らは軽蔑されるのである。