Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

石油で読み解く「完敗の太平洋戦争」

「石油で読み解く『完敗の太平洋戦争』」岩間敏。

日本がABCD包囲網のために石油の入手ができなくなって、ついに日米開戦を決意したのは有名な話である。「座して死を待つよりは、死中に活を求めん」ということだ。
ならば、日本は開戦後、戦争遂行に絶対必要な石油を(石油がなくては近代戦を戦えないのだから。日本刀で敵兵100人を斬り殺すのは、チャンバラ時代劇の見過ぎ)どうして確保しようとしていたのか。
本書は、もと石油公団の理事が、丹念にその足跡をたどったものである。

正直言って、読んでいるとため息しか出ない本である。

まず、昭和16年8月の御前会議において決定した方針がひどい代物である。
1.中国との戦争は継続。
2.ロシアは、そのうち何が起こるかわからないから、開戦の可能性あり。
3.南方は、石油確保のために開戦。
4.対米は、このまま交渉がまとまらなければ開戦。

つまり「四正面作戦」であった。通常の戦略で「二正面作戦」すら忌むべきものである。それを、天皇陛下の目前で、四正面をぬけぬけと奏上したのである。これは既に「国策」とは呼べない。

満州において、石油を探索したが、当時の日本の技術では油田を発見できなかった。日本が探査を行った地点から、山地をひとつ越えたところで、中国最大の油田が発見された(戦後)。

また、当時は日本の領土であった樺太(サハリン)にも石油があった。これもソ連のスパイの攪乱に合い、まったく開発できなかった。今、ロシアの大型油田開発計画「サハリン1」「サハリン2」となっている。日本は、目の前に大油田がありながら、技術と資本がなくて、一滴の石油も得ることができなかった。

さらに、石油精製技術も後れていた。当時の日本では、オクタン価84の航空用ガソリンをつくるのが精一杯だった。アメリカは、オクタン価100のガソリン(水素添加)を既につくっていた。そのまま、航空機のエンジン馬力の差となった。戦後、米軍が日本の優秀機(疾風、彩雲など)に航空ガソリンを入れて試験したら、いずれも時速690KM以上を出し、米軍機と遜色なかった。しかし、日本のガソリンでは、こんな性能は望むべくもなかった。

いざ南方を占領したら、こんどは海軍と陸軍の間で軋轢が起きた。海軍が石油精製施設の70%を占領し、一方陸軍は油田の85%を占領した。(占領地域の分け方による)。海軍は、陸軍に原油の融通を頼んだが、陸軍は拒否した。だから、海軍は常に燃料不足を心配しながら戦わねばならなかった。一方、陸軍は豊富な原油をもちながら、肝心の精製施設をもたないので、何も使うことができなかった。南方の石油は、こうして「数字上では」あることになっていたが、現実はいくらも手に入らなかった。
その上、1943年から、米軍の徹底的なシーレーン破壊が始まり、国民生活はみるみる窮乏していった。

評価は☆☆。資源と我が国の関わりを考える上で、実に参考になる書だと思う。


さて、日本の石油化学工業は、戦後、長足の進歩を遂げる。戦争の教訓は、一面では生きたのである。
しかし、残念ながら、肝心の石油探査と油田運営能力では、石油メジャーの中堅どころ以下の力量しかないのだという。

日本の石油は、中東に偏重している。欧州は、英国の北海石油があって、英国は純輸出国であるため、かなりEU内で調達できる。アメリカは、国内油田があるし、ロシア、アフリカがある。
中国はロシアと中東である。

日本は、ほとんどの石油を中東に頼る構造となっている。その中で、米軍は沖縄からグアムに移転しようとしているし、おそらく米国の政権が民主党にうつれば、イラク派兵も中止になるだろう。それは構わないだろうが、さて、石油はどうなることだろうか。

急成長する中国は、大量の資源を必要とする。日本向け資源の積み出し先を中国に変えるだけで、彼らの問題はかなり解決するのである。

日本の窮乏は、決して「遠い記憶」ではないのだが。。。