Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

つける薬がない

東京都知事選に立候補し、政見放送で「こんな国は滅ぼせ」という異例の主張で世間の耳目をあつめた外山なる人物が、なんと求刑の8倍の罰金判決を受けるという壮挙をなしとげた(笑)。

彼の犯罪は、原動機付き自転車で道路を逆走し、速度制限違反を併せて犯したもので(時速50km)事実については争っていない。
彼の主張は「道交法が間違っている」というもので、裁判官は「反省の色もない。検察の求刑は軽すぎる」として、求刑1万5千円のところ、12万円の刑を言い渡したのである。
これから、外山氏が「国家の陰謀」説を主張することを期待すると、思わずニヤニヤしてしまうのである。
日本国が泡沫候補で落選した人物に陰謀を仕掛ける(つまり国家的陰謀である)ほどヒマであれば、実に喜ばしく平和な国家の象徴であると言えるので、そのような牧歌的な真相を期待してもいいけどさ(苦笑)。

この事件について、外山氏が主張するような「悪法には人は従わなくてよい」という論理は、一見もっともに思える。しかし、それは早い話が「法を守りたくない側の言い分」に過ぎないものである。

そもそも、道路は右を走っても、左を走っても、実はどちらでも構わないものである。世界には、右側通行の国も左側通行の国もある。
では「バイクは左側なんて、守る必要がない、根拠がないじゃないか」という主張は正当であると言えるだろうか?
実際に「好き勝手にどっちでも」通行可能となったら、あちこちで正面衝突が起こることは間違いない。道路を安全に通行したかったら、戦車を旧東側から買ってこい(安いから)となる。もちろん、歩行者も自転車も、みんな命がけで、出立のたびに家族と水杯を交わさなければならんのである。

そもそも「右だろうが左だろうが」どっちを通行しても良いことなのに、なんでこういうことが起こるのか?ということであるが、つまり「どっちかに決めなくてはいけない」からである。
右でも左でも良い、だけど「どっちかに決める」ことによって、正面衝突がなくなり、人は初めて安心して外出できることになる。
すなわち「右か左か」は意味がないことであって、ただ「どっちかに決める」ということ自体が社会的に利益をもたらすことになる。これを「法的秩序」という。
ある場合は、法は強制力をもって、この法的秩序を守らせる場合がある。つまり「法的利益」を守らなければならないからである。

つづめて言えば「右側か左側か」に理屈はない。ただ「決まっているのだから、守れ」というのが「法律」なのであり、それ自体で皆がメリットを得る。

もっと言えば、誰が利益を受けるかを考えると「弱者」なのである。もしも「法的秩序」がなければ、道路は戦車を持つ者にとって自由であるが、歩行者や自転車は手も足も出ない。
強い者であっても、法は守らねばならない。そうしなければ、強者の持つ力を制限することが不可能なのである。法を守るというのは、弱者が自らを守るための制度を維持する上で、不可欠なことなのだ。
そこまで理解していたから、ソクラテスは毒杯をあおって死んだわけである。

外山被告がこのような判決を受けてしまったのは、彼にはそもそも「法を守る気がない」からである。彼を放置しておけば、それは「法を守らなくても良い」という風潮を助長することにもなりかねない。
法は、法を守らない者は保護しない。そうしなければ、法的秩序は崩壊する。結果、社会的利益が失われると、実は力のない弱者が虐げられる社会を招来することになってしまうのだ。

外山被告は極左なのだそうである。そう言われれば、左翼の人は怒るのではないか。彼が原付バイクで道路を逆走したとき、歩行者も自転車も彼の眼中になかっただろうことは想像できる。
こんな人間を左翼と呼ぶのは、いくらなんでも左翼に失礼である。私の知っている左翼は、もう少し高級な思想のはずである。(右翼の私が弁護するのも妙だけど)

つける薬がない。ただの阿呆である。