Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

半落ち


映画の原作であって、たいへん有名な小説のようである。「ようである」とはヘンな表現なのだが、私は生来の天の邪鬼で、有名な作品は読みたくなくなるのである。で、今さら読んでいるわけだ。
こういう自分の行動を思うと、40過ぎても結婚できないでいるのもむべなるかな、と思う。へそ曲がりなのである。

それはともかくとして(苦笑)。
本作であるが、一応主人公は梶なる警察官である。温厚篤実な性格であるが、アルツハイマーに苦しむ妻をある日「嘱託殺人」してしまう。いわゆる安楽死のたぐいである。
妻は、亡くした一人息子の命日に墓参にいくのだが、そのことすら忘れてしまい、己の運命に慄然として「あの子の母親でいるうちに殺して欲しい」と梶に頼む。
梶は、妻を殺害したあと自首するのだが、その間に2日間の行動不明な時間がある。その間の行動については、がんとして口を割ろうとしない。彼の自宅には、「人間五十年」という掛け軸がかけられていた。
一度は自殺を考えた梶が、それを思いとどまって自首した理由を追って小説は展開する。
そして1年後、拘置所に彼を訪ねた訪問者によって、謎はとける。。。

本書が有名になったのは、たしか直木賞の候補になったが、そのラストが林真理子北方謙三らによって「あり得ない」と批判されたため、受賞を逃したというものである。
その後、骨髄バンクの見解が出て、本書の結末もあり得ることになった。

ただ、私は、仮にこの問題がなかったとしても、やはりこの作品は受賞にはふさわしくないように思う。横山氏の作であれば、もっと良い作品はいくらもある。
なんだか、この作品は説得力が弱いというか、なんとなく薄甘さが目立つように思うのである。
あくまで私的な感想にすぎないのだけれども。

評価は☆。ま、話題になったし(笑)

ところで。
哲学で、こんな有名な話がある。それは「臓器くじ」である。
すべての人間を対象として「臓器くじ」が行われる。その「臓器くじ」に当たった人は殺される。彼のずべての内蔵は、ただちに移植手術に供せられる。
心臓、肝臓、腎臓(2個)、皮膚、角膜、etc。彼一人の死によって、多くの人命が助かることになる。ならば、この「臓器くじ」を悪だと言い得るのか?という問題である。

私は、この問題を考える場合に、さらに付け加えたいと思うのは「逃亡」の問題なのである。
もしも、この「臓器くじ」にあたった男が、逃亡を企てたら、やはり罪であろうか?
あるいは、この男が、富士の樹海で自死したらどうだろうか?樹海の中で自死した遺体は、もはや移植には適さないことは言うまでもない。

よく「私の体は、私の物ではない」というような議論がある。それは、所有という概念をめぐる問題でもあるし、またモラルの問題でもあるだろう。
しかし、どうも、このような問題を考えていくと、やはり「自己の所有」(それは自由につながる)という概念を肯定しておかないと、非常に居心地が悪いように思うのである。
人間の世界では、いろいろなフィクションがあり得るのだが、「所有」というフィクションは、やっぱり大事なものではないかと思うのである。