Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

缶詰の音楽

ベートーヴェンの「運命」を、最初に買ったのがセルだった。すでに20年以上昔の話である。カップリングは「未完成」。よくある組み合わせだった。

ところが、このセルのレコード、ひどい録音で、聴いていてがっくりくるような音しか出ない。何が天下のクリーブランドだ?!「ま、こんなもんだろ」と思っていた。

私のオーディオはだんだん片隅に追いやられて、いつしか「3畳間のオーディオ」になった。いちばん広い部屋から、徐々に追いやられて、とうとう一番狭い部屋にセットをおいているのだ。


話はとぶが、もう4年くらい前だと思うが、突然パニック障害になった。
いろいろな意味で、ムリをしすぎたのだろう。それでも、自転車通勤の強みで、電車に乗らないで済むから、がんばって出社して働き続けた。
そのとき、たまたま音楽評論家、許光俊氏の本を読んで、衝撃を受けた。

許氏の指摘は
クラシック音楽(=後期ロマン派中心)は、つまり音楽の弁証法だ。ソナタ形式そのものだ。正と反が、闘争して止揚されて別の次元に行く。
だけど、そんないつもいつも、ウマイ具合にいくもんか。弁証法なんて、実は西欧文明の嘘っぱちじゃないのか?
それを暴露しちゃった超名曲こそシューベルトの「未完成」なのだ」

「未完成」を「西欧的弁証法への異論提出」だと位置づけた許氏の文章は、がんばり続ける生活に疲れ切った私に、なにかを与えた。

氏の推薦版のヴァントは、しかし、CD屋に見つけられず。当時は、アマゾンという技も知らなかった。
で、手持ちのCDを聴いた。だけど、わからなかった。

それで、ついに古いレコードのセルを聞き直した。「運命」のB面で、おまけ扱いの演奏である。
それで、やっと分かったのである。この曲のとてつもなさ、がようやく分かった。その慰藉が、やっと伝わってきたのである。
そうか、そうか。みんながベートーヴェンのようにがんばれるわけじゃないもんね。ベートーヴェンは、ある意味で「ロマンチスト=夢想家」だった。現実は、必ず「勝利」「前進」のわけがない。

よく考えると、昔のレコードは必ず「運命」「未完成」だった。よく考えられていたのだろうなあ。ううむ。

セルのレコードはひどい録音で、いつも腹が立つ。けれども、その音楽は掛け値なしに素晴らしい。

セルのおかげで、レコードを取り戻した私は、今はひっそりとスタックスのヘッドホンでレコードを聴く。日曜日に、スピーカーをじゃんじゃん鳴らすようなことはしなくなった。
疲れた平日の夜、あるいは週末に、なんとなく1枚、レコードを磨いて聴く。
どういうわけかCDを聴くことが減った。

寝ていようと、雑誌を眺めていようと、いつでも私の好きな時間に、好きな音量で、レコードは鳴ってくれる。それも、もはや物故した(つまり、今となっては実演の聴きようもない)音楽家の演奏を聴くことが出来る。
死んだ人の音楽を聴くなんて気持ち悪い、などとも思わなくなった。どうせ、いつかはあっちの仲間入りなんである。めくじら立てることもあるまい。


缶詰は新鮮な料理には勝てません。
けれども、缶詰もやはり便利で、それなりにちゃんと食べることはできます。夜中に、腹が減ったとき、缶詰があると助かりますもんね。

コンサートには何度か行ったが、どうもうまい感激がない。体調が悪かったり、席が悪かったり、たまたま演奏がイマイチだったり。「これなら、家でレコードを聴いた方がいいなあ」と思った。
私はだいたい出無精だからねぇ。

ま、缶詰で結構満足しているわけですよ(苦笑)