Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

文学的商品学

「文学的商品学」斎藤美奈子

文学を、ストーリーだの構造だの叙述スタイルだの、といったところから離れて「モノカタログ」として読んじゃおう、という試み。
悪意はないわけである。少なくとも、ないふりをしている(笑)それがいいのだな。

まずファッションについて。
青春文学に登場するファッションが、実はイメージとかけ離れて、描写が意外に少ないこと。その原因を、著者は、青春文学が好んで採用する一人称形式の叙述に原因がある、と指摘する。
なるほど「僕」のオンパレードである。で、「僕」が自分のファッションを細密に語るわけがない。だって、自分の姿は見えないのだからね。

バンドについて。
文学で「バンド」の「音」は描写されない。描写の対象になるのは、演奏の動きである。
で、それではいかん、というので「歌詞」をそのまま書く、という革命が起こったわけだが。この「歌詞」がクサイのである(笑)まあ、よく考えてみれば、歌の歌詞って、メロディがついているから鑑賞にたえるのであって、歌詞だけじゃあホントがっかりだからなあ。
秀逸な方法としてはオノマトペによるものがあるが、いくらなんでも文学中にジャーン、ジャジャーン、ドンドンジャンが連発では意味不明だし、そりゃあ文学になりにくい。

野球。料理。
こういった小説は、いきつく結論は1つしかない。いわく「野球は人生である」「料理は人生である」なんだか、つまらない中年男の人生訓になってしまう。

貧乏。
文学は「貧乏」がなぜか大好き。で、貧乏を持ち上げる。しかし、大正時代のプロレタリア文学を取り上げて「これほど対象と書き手の知的レベルがかけ離れている文学もない」「文学じゃなくて論文」と斬れ味抜群。

評価は☆☆。すれっからしの小説読みが泣いて喜ぶ名フレーズが続出である。

願わくば、もうちっと「遊び」を増やしてくれると、なお良いのではないかな。
たとえば、青春文学の「僕」「君」という呼び方は幕末の志士の間で流行したのが始まりであり、青臭いイメージはそこが発端だとか。
あるいは、オノマトペによる小説では筒井康隆のバブリング創世記、なかんづくジャズピアニストの山下洋輔のドドンドンドン、ドンドコジャーンがスタートで、さらに遡ると古事記が怪しいとか。
そもそもファッションに詳しい奴は作家にならない、、、あ、これは書いてあったな(笑)

こんな読み方でいいんだ、と思わせてくれる点で、出色の評論だと思うな。
世の中には「されど文学」が多すぎるのだ。「たかが文学」でいいじゃないか。だって、そもそも小説を買わない人がほとんどになったわけで、今や「されど」を主張する価値なんてないんだから。