Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

幕末

「幕末」司馬遼太郎

幕末に吹き荒れた志士による暗殺劇に取材した連作短編集。
有名な桜田門外の変から「最期の攘夷志士」までを取り上げる。

司馬は言う。「だいたい、暗殺が時代を動かすことなどない」しかし「桜田門外の変だけは例外だろう」と。
この暗殺によって、日本は明治維新という時代の扉をあけたわけである。そういう意味で、結局この挙によって命を失った志士も、そして井伊直弼も含めて「犬死には一人もいない」ということになる。
政治におけるテロルというものを、私は絶対に認めないが、しかし、桜田門外の変だけは例外という見方はたしかに否定できない。

ただ、これはある意味で、後年の日本の行く末を考えたときに不幸なことであったと思う。明治維新が「志士による暗殺」の積み重ねで、殺し合っていくうちにできあがったものであることは、大変な問題を残したと思うからである。
司馬遼太郎自身、テロルに対しては一貫して否定の立場をとるわけだから、これは例外中の例外ということである。この点、いくら強調してもしすぎることはないのである。

評価は☆。面白い小説であることは疑いなく、また難しい題材を見事に扱った練達の技、というところ。

個人的に面白かったのは、「最期の攘夷志士」である。
天誅組に加わった国学者、三枝蓊は、その指揮の粗雑さにあきれながら一人戦場を離脱。しばらく潜伏し、尊皇攘夷の活動を続ける。
そして、ついに英公使パークスが天皇陛下に拝謁する日、この行列を襲撃するのである。
しかしながら、すでに明治政府は「尊皇攘夷」を捨てていた。
大騒ぎし、暗殺の嵐を生き延びた尊皇攘夷の志士達は、みな変節し、かつての浪人脱藩者たちは貴顕の身となっていた。
そこに、もはや時代遅れの攘夷に殉じたのが三枝蓊である。
パークス襲撃は失敗し、彼はとらえられ、死罪に処せられる。武士の面目をたもつ切腹ではなく、斬首であった。
そして、非命に倒れた維新の志士を祀っている靖国であるが、この三枝蓊は祀られていない。彼が最期まで節を曲げなかった尊皇攘夷の志士である。
それを司馬は「醇乎」と表現する。
時代に乗り遅れた者への哀歌であろう。

辞世「今はただ 何を惜しまむ 国のため 君のめぐみを わがあだにして」

哀れであるが、これも時代と言うより他になく、やむを得ない仕儀であると思うばかりである。