Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

お気に召すまま

長崎の伊藤市長をテロルでもって暗殺した男に死刑判決が下った。
この犯人は「右翼」ということになっているが、実態はヤクザの三下以下の扱いであったようだ。実際にも、銃撃に際して背後から撃っている。
ヤクザのリールからすれば「タマをとる」ときに背後からは撃たないもので、「本家」は破門するしかない失態なのだが、それはまあ、本論とは関係ない。

ふと思ったのだが。
反核」で知られた伊藤市長は、ひょっとして「死刑廃止論者」ではなかったか?と思いついた。で、調べたが、正直よくわからなかった。

なぜそんな疑問を抱いたか?といえば「一人殺して死刑」は、最近の厳罰化の流れの中であっても、まだ相当異色なものだからだ。
先の光市母子殺害事件で、青山学院大学の準教授が「もう一人は子供だから1.5人」という画期的な理論を提唱し、大いに世間の耳目を集めたことがあった。さすが、学者の考えることは違う(笑)
しかし、今回はまぎれもなく「一人」に過ぎないわけだが。
しかも、射殺という手段は、殺害の方法として、格別「残虐」ではない。普通に残虐、というべきか。
ひょっとしたら、この裁判官は、任侠道に明るくて「カタギに手を出すたぁ、掟違反じゃねえか」という見解なのかもしれない。もしそうならば、それはそれで立場の一貫性があるというものだとは思う。
だけど、そうでないなら、同じ「一人」でも犯罪の重みが違うってことですかね?あれれ、人間の法的権利が平等じゃないとしたら、憲法の「法の下の平等」との関係を、どのように考えたら良いのか?悩ましいねえ。

で、ここから、話をさらにややこしくしてみよう(笑)
仮に、被害者が「死刑反対論者」であるとする。そうすると、彼を殺害した犯人が死刑に処せられるのは、なんと被害者の遺志を踏みにじる行為に他ならぬではないかね?
被害者の立場になって考えてみると、理不尽にもある日突然、生命を奪われた上に、その生前の主張まで否定されることになる。このような事態があって良いものであろうか?

逆のケースを考えてみる。
「とにかく、人を殺したら、その犯人は死刑が相当」という応報論者が居るとしよう。彼が、やはりある日、理不尽にも生命を奪われる。
犯人は裁判にかけられ、無期懲役となった。その場合、やはり被害者は、生命を奪われた上に、生前の政治的主張も否定されたことになろう。

これは、理不尽の上に理不尽を重ねる行為ではないか、と思うのだが。

そこで、画期的な制度を提案したい。それは「死刑カード」の保持である。

今や、いつなんどき死に直面するか分からないので、親切にも「ドナーカード」まであるではないか。
言うまでもないが、死後に自分の遺志を表明することはできないから、生前から意思表示をしておくのである。この制度を、そのまま死刑に応用すれば良いではないか。
つまり、万が一、自分が殺人事件の被害者になった場合を想定して、その場合に犯人に「最高刑で死刑を望む」もしくは「死刑は回避する」いずれかの意思表示をしておくのである。
もちろん、死刑を望んだから、必ず死刑になるというのではなく、あくまで「最高刑をどうするか」に適用する。

そうすれば、先に挙げたような「死後に、自分の政治的主張が踏みにじられる」ような事態は回避できる。各人の主張に沿った最高刑が適用されるのであるから、その遺志は反映されるのである。
そればかりではない。この制度は「死刑制度」に関する不毛な議論を終わらせることができる。
制度を維持したい人には維持されるし、そうでない人は廃止される。それは各人の判断に任せれば良いのであって、それ以上は他人の自由への侵害であるだろう。
もしも、全国民が仮に「死刑廃止カード」を保持すれば、国は自然に死刑制度が廃止になるのである。これこそ、直接民主主義、まさにデモクラシーの見本ではないかね。

もっとも、殺人を犯した犯人の意思は反映されない。殺人事件に際して、犯人よりも被害者の意思が尊重される原則ということになるが、それに関してはごく自然な価値判断というべきで、支持され得るであろう。

え?!私ですか?そりゃあもちろん「制度維持」カードを持つ、だろうと思いますね。だって、私がもし「殺したいほど憎い相手」がいたら、まずそいつがどっちのカードを持っているか、それを調べますからね。。。(苦笑)