Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

ミスティック・リバー


ジミー、ショーン、デイブの3人は、スラムに近い下町に住む仲良しだ。
ある日、偽警官の犯罪者に、デイブが誘拐される。
彼は、自力で脱出するが、4日間の間に性的暴行を受けて、心に深い傷を負う。
この事件がきっかけで、3人はいつしか疎遠になる。

やがて、ジミーは犯罪者のちょっとしたボスになるが、しかし、ふだんは町の善良な商店主として暮らしている。「悪事は近所でするな」が彼の信条である。
ジミーは警官になる。優秀な警官だが、癖のある男だ。
そして、デイブは平凡な技術者だが、少年時代の性的暴行の記憶から、変質的な小児性愛を抱くようになってしまった。

さて、ジミーの娘、ケイティがある日、殺された。彼女の足取りを追う警察。やがて、捜査は、デイブが当日、ケイティの行った店に行っていたということに行き着く。
この日の夜、デイブは血まみれで帰宅していた。デイブの妻は、彼に対する疑念をジミーに漏らす。
復讐に燃えるジミーは、デイブを殺害し、ミスティック・リバーに沈める。
しかし、ショーンは事件の真犯人を逮捕。それは、デイブではなかった。ケイティは、ジミーが殺した男の息子に殺されていたのだ。
誤った殺人をしたジミー。しかし、まったく証拠がない。ショーンは真相に気づいているが、証拠がないので手が出せない。。。

評価は☆☆。なるほど、これは名作と言われるだけの作品である。
やりきれない思いというか、ずしりとした重たいラストである。

この作品は映画化されて「政治的映画」として評価する向きもあるようだが、小説として読めば、べつだん政治的ではない。むしろ、アメリカのミステリの系譜「暴力と不条理と寂しい男達」の流れを正当に踏んでいる。
映画は知らないが(私は原作を読んで映画をみないタイプである。映像表現は過剰にすぎる場合が多い)ちょっと解釈のしすぎではないだろうか。もしも、この小説が政治的だとしたら、エルロイもテランも、コナリーも、みんな政治的になってしまうのではないか?と思うのだ。
ボウズ憎けりゃ袈裟まで憎い。なんでもかんでも「政治」で解釈すうるのは、ちょっと、行き過ぎではないかな。

この作品で殺されるデイブに対しては、あまりに救いがないと思われるのかもしれない。
彼が犯罪被害者であり、それが原因で異常な性愛者になってしまい、あげくに誤解を招いて殺される。
しかし、実は、本人に落ち度はないにせよ、彼は自分の異常性愛を嫌っており、かつ、それが治らないことで絶望しているのである。
一面で、ハッキリとはいわないものの「死」が救済になっている。
本人が望む、望まないにせよ、「死」が救済という考え方は、実は東洋的なものだと思うのだが、今の日本人は「闘争に打ち勝って克服=勝利」というステレオタイプな思考法に慣れているから、理解できなくなってしまったのだろう。
「死」を救済とした思想は、たとえばシューベルト「未完成」やマーラー大地の歌」の音楽にもある。西欧人だって、常に「対立が止揚して勝利」などと信じているわけじゃあないんだが。
日本人のほうがむしろ西欧化してきているんですかなあ。