Single40'S diary

「40過ぎて独身で」と言ってる間にはや還暦のブログ

金がないから文化

橋本知事が大奮闘しておられるようです。
もちろん、たくさんの抵抗があるわけですが、このままでは「座して死を待つ」ことになってしまいますから「ダメもと」で頑張ってみるほかない、と思うんです。
もちろん、改革という奴が、常に成功するとは限りません。しかし、何もしないわけにはいかないんですから。

で、橋本改革の一環として、いろいろな特殊法人が整理されていくようです。「図書館以外はいらない」と言明されたとか。。。財政難の折、ある意味で仕方がないと思います。

私は思うのですが、「文化は金がかかる」という常識は、西欧市民社会起源じゃないか、と思うんです。文化は金がかかる、それはそうなんですけど、ホントの文化の価値って「金じゃないものに、同じように価値を与える」ことだと思うんですね。

たとえば、ですが。
千利休が鑑定した、東南アジア製の粗末な茶碗がたちまち千金になるわけです。で、金ぴか好みの秀吉は「この野郎」と怒って、利休に腹を切らせてしまう。これ、秀吉には芸術がわからなかったのが原因なんですが、もっと言えば、秀吉は「経済人」だったからだ、と思うのです。
秀吉という人は、城攻めが抜群に上手いのですが、その当時としては画期的な「経済戦争」をやった人です。兵糧攻めという「経済封鎖」水攻めは「公的土木工事」でして、正面戦力以外で戦って勝つ。
ですから、茶室も金ぴかなんです。

ところが、利休は「侘び」です。
茶室は四畳半でいいと言う。花は一輪でいいと言う。これは「貧」ですよ。しかし、そこが良い、というわけです。凝縮のマニエリスムだと思うんですが、しかし、それは本質じゃなくて。
つまり、お金という「多いか、少ないか=価値」という一直線上の価値観に対して、全く違う価値観を持ってきた。それで「ひとつの価値観」しか分からない秀吉の怒りを買ったんだろうと思うんです。
土塊みたいな茶碗が、どうして金ぴか茶碗よりも高くなるのか?それは、別に「高いから良い」のではなくて、本来は価値が違うのだけれども、まあ、無理矢理金額をつけてみたら高かったようだ、なんてことですね。

考えてみますと。
たとえば、百人一首をとるのが上手くて、なんの役に立ちますか?
あるいは、香をかぎ分けて、なんの役に立つでしょうか?(犬じゃあるまいし)
お茶は、お花はどうですか?そりゃあ、先生になって弟子をとれば儲かるのかもしれませんが、お茶やお花をする人はみんな「先生になるのが目的」じゃないでしょう。

文化は、金儲け以外に、違う価値観があるっていうことじゃないでしょうか。

経済社会でいえば。
たとえば、自動車は、大きい方が偉いのです。カローラよりもマーク2、マーク2よりもクラウンでしょう。それは「秀吉」なんです。
で、利休は言うわけです。「軽自動車でよい」というのです。「これで足りる」。それどころか、クラウンを馬鹿にしちゃうわけですな。
クラウンが偉い人にとっては、ワケがわかりません。

しかし、軽自動車で良いという価値観があれば、クラウンを買う=金持ちであるという能力以外に、異なる価値観があるということなんです。
もう少しつっこむと、現代では「軽自動車道」(道は、高速道路の道ではなくて、茶道や華道の道です)だってあり得ます。「プリウスと同じ燃費で、プリウスよりも少ない資源で作れ、プリウスよりも狭くて簡単であるから良い」みたいな価値観です。そういう意味では、軽自動車は現代の茶室でしょう。
どっかのメーカーが軽自動車のCMで、そういうのをやらんかな(笑)

私の世代はオタク世代のはしりだと思いますが、たとえばガンダムにどれだけ詳しかろうと、それで金儲けができるわけではない。それでもみんなが「価値がある」と思えば、そこが「文化」だと思うんです。
価値を信じるという意味では、印刷物(紙幣のこと)とガンダムは等価なんです。

そのガンダムを、まあ無理矢理、お金に換算してみよう、というのがオークションだと思うんですね。そもそも異なる言語体系を無理矢理通じさせる「翻訳」だろうと思うんです。ニュアンスまではくみ取れませんよ。

つまり、オタクだって文化なんです。
オタクは、文化だとすれば、危険ではないと思うんですが。
ただ、その「文化」を、たとえばオークションで金銭価値に翻訳すると。これは、利休と同じ、身を損なう危険があると思うのです。

正しい文化愛好家は。
もちろん、大事なものは「秘蔵」するのです。
他人は、それを「死蔵」と呼びます(笑)
それこそ、正しい「文化」の姿だろうと思うのです。

金はなくても文化、いや、金がないから文化でいいのじゃないでしょうか。